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京都教育センター            2007.5.5
    
教科教育研究会・国語部会通信
                第17号


「全国学力テスト」との同時実施
    「学習状況調査」を検討する



 前号・前々号で、「全国学力テスト」(国語)を検討した。この「全国学力テスト」と同時に実施されたのが、「学習状況調査」である。これは、「児童質問紙」と「学校質問紙」とで構成され、「児童質問紙」は「全国学力テスト」を受ける子どもたちが答えるもので、「学校質問紙」は校長が回答するとされている。

 この内容の中にも、国語について関わりのある設問がいくつかある。それは、「全国学力テスト(国語)」の検討で何度も指摘した国語科の構造についての、体系・系統のなさ、本質を歪められていること、そのことに関わり、それを端的にあらわしていることが、この「質問」に出ている。

 この号では、そのことについて検討していきたい。


1.「児童質問紙」を検討する

 この調査の項目は、じつに78項目にものぼる。これだけの項目を設定しての調査が何を意図しているのか、また、その「結果」がどのように使われ、何が教育政策としてでてくるのか、それはかなり重要な問題である。

 だとすると、当然その全体を検討しなければならないのだが、ここでは国語教育にとっての問題に限定して検討したい。

 質問のLでは、「国語について、どのように思っていますか」と問うている。(68)から(74)までの7項目あるが、4段階(当てはまる・どちらかといえば当てはまる・どちらかといえば当てはまらない・当てはまらない)で答えることとなっている。

 国語が好きか、読書が好きか、また、大切か、よく分かるか、ぐらいまでは個人的に問われていることで答えようもあるが、「新しく習った漢字を実際の生活に使おうとしている」「相手や場面に応じた言葉づかいに気をつけている」は、その態度を聞いてどうするというのだろうという気になる。そして、「国語の授業で学習したことは、将来、社会に出たときに役に立つと思う」に至っては、国語教育を技術・技能の教科としてしか見ていないことを明確にしていると思われる。

 何度も繰り返し提起することとなるが、このことが現在の国語科指導の本質的な問題であることを考えねばならない。これは本質的には、「学習指導要領・国語科」の言語観が、ことばの内言のはたらきを捨象し、外言としての伝達機能ばかりに目がいっているという問題である。そのことは、「『ことばの力』を伸ばすことを通して、子どもたちの人間的成長をめざす」という国語教育本来の目標を抜け落ちさせてしまうこととなっていることであり、もっとも基本的本質的な問題である。

 つづいて、(75)で国語の授業内容に関することを訊き、(76)から(78)の3項目で、この「全国学力テスト・国語B」の問題について、「どのように思いましたか」という設問をしている。

 その内容は、(75)は、「国語の授業で、絵や写真、図や表、グラフなどを使って、文章を読んだり、書いたりしていますか。」という問題である。これは、2の問題について類似した学習をしているかどうかの調査である。さらに、(76)は、1の話しあいの記録を読ませての問題で、「この問題は、学級やグループで司会者となって話し合いを進める問題です。あなたは、国語の授業の中で司会をすることがありますか。」と、このような活動をしているかどうかを問う問題である。またさらに、(77)は、2の三の新聞を提示しての問題で、「この問題は、目的に応じて資料を読み、分ったことや考えたことを書く問題です。このように、あなたは国語の授業で資料を読み、自分の考えを話したり、書いたりしていますか。」と訊く問題である。そして(78)は、3の二つの感想文を対比して読む問題について、「この問題は、二人の感想文を読み比べて、自分の感想文に生かす問題です。

 このように、あなたは、国語の授業で、2つ以上の資料や文章を比べて読んだり、調べたりしていますか。」と訊く問題である。

 ここで、国語の授業での「方法論」を四つ提示している。

    1.絵や写真、図や表、グラフ等を使って読み、書くこと
    2.学級やグループの司会をして話し合いを進める
    3.目的に応じて資料を読み、解ったことや考えたことを書く
    4.二つの感想文を対比して読む

の四点である。しかし、これは国語教育の独自の課題であろうか。とてもそうとは思えない。国語教育とは、他の教科や学習の基礎ともなる「ことばの力」をつける教育実践であることをしっかりとおさえたものとは思えない設問である。

 これらは、どの分野の教材として配列されていると考えているのだろうか。この「全国学力テスト」を実施するとき、あるいはその問題を作成するときに、これまでの学年の教材を見たであろうから、それらがどう教材化されていると読みとったのであろうか。

 1は、論理的な文章を読みとる説明文教育の課題だと思われるが、どの教材にこんなものがあったのだろうか。挿絵や写真などがある教材もないわけではないが、説明文教育は、文章の読みをどう深めるかが課題である。2は、話し合い教材が配列はされているが、多くの子どもが司会をするという時間配当になっているとは思えない。3は、国語教育としてよりもむしろ自然科学・社会科学の学習での方法論と言える。4は、みんなの感想文を読みあうことを大切にしたいと思っても、それを進める条件は極めて厳しいのが現場の状況である。

 なぜ、このような設問での「調査」がなされるのか。  それは、「全国学力テスト」の内容の分析でも何度も指摘したが、PISAの問題の「形式」をなんとか取り入れようとする意識、更に言えば、形式に慣れることでその点数をあげようとする意図からであろう。 問題配当が「形式」が優先して、国語教育としての本質を見失うこととなってしまっていることは、大きな問題となる。  また、「現場の状況」を無視したものだと書いたが、それは、この二点である。

 1.現実の教科書教材として出てこないものであることを指摘したが、それならば、自主的に教師が教材を創造的に作り、授業で活用すればいいのだが、そんなことができる状況にない。

 2.感想文を読みあうこと、交流し合うことなどを積極的に進めていきたいが、そこには大きな壁がある。教師が創造的に教育実践を展開していくという自由は、まったく保障されていない。

  こんな状況を文科省が知らない訳はない。それは、文科省を頂点とする教育委員会の管理体制が現場を覆っているからである。

 もうすこし具体的に言うと、1については、現場で教科書教材以外のものを取り入れたり使ったりすることは、不可能である。「教育課程」と「週案」そして「指導案」で、少しでも教科書から逸脱するものがあれば、それは厳しく規制される。それを象徴するような、次のような「笑い話」さえある。それは、ある地域では「教育課程」は教務主任会のしごととされ、新年度初めには、そこで作成された(作成されたといっても、教科書会社の資料・指導書通りなのだが)冊子が配付され、現場から意見も出せずにそのままおしつけられる。ある時、その作成された教育課程の道徳のある単元(教材)が、副読本にあるにもかかわらず欠落していた。そして、それを公開授業の単元(教材)として使おうと「指導案」を提出したところ、「教育課程」に載っていないという理由で、「許可届」を出すこととなった。このように、もともと欠落していたものですらそのようにしなければ使用できないのだから、自主的な教材など、使えるわけがない。そこで、「図や表を使って」とか「資料を読み」などができると考えているのだろうか。こんなものは、文科省が「現場がこのような活動をしていない」から点数があがらないのだという「責任転嫁」のためのごまかし以外の何者でもない。

  2についても、同様であるが、「感想文を読みあう」ことは、たしかに大切であり、仲間の文章、作文、詩などを読みあう機会は、どんどんつくっていきたいものである。しかし、現実には「文集」などを出して、子どもたちみんなで読みあうことなども、大きな壁がある。例えば、「起案制度」の徹底は、文集づくりにも適応されることが多い。発行に時間がかかり、子どもたちに提示する気を逸したり、「書き直し」や「発行停止」などで学習に活かせないこともある。もともと、子どもの作品であるから、書き足りないところや不十分なところもあるから、その力を伸ばすために文集などで学んでいくのである。それが、規制されたり、やめさせられたりする中で、そのとりくみのエネルギーは、どんどん衰退してきている。このような状況は、文科省・教育委員会・管理職自身が作ってきたものではないか。「責任転嫁」もいい加減にしたら、と思える。

 このような「調査」の「結果」だけが「公表」されたら、現場教師への批判は、ますます強まるだろう。そして、本質的に文科省の見識・専門性の問題と、それが作りあげてきた現在の体制が「学力低下」の基本問題であることを見えなくされてしまうのではないか。また、それは前号・前々号で検討した「内容」の基本問題とあいまって、子どもたちの「ことばの力」を伸ばす国語教育は、空洞化から崩壊へと進むのではないだろうか。


2.「学校質問紙」を検討する

 ここにも、文科省の学力観あるいは国語教育観が端的にあらわれている。

 この「調査」の主な目的は、文科省の施策がどれだけ各学校で受けられているかをつかむことにあるようである。(少人数授業、能力別編成、朝学習等、補習、学校評価、研修、体力テストなどなど)  そのなかで、ここでは「学力」および「国語科指導」に限って検討したい。

 まず、「学力」については、5.学力向上に向けた取組、8.学力の把握、9.個に応じた指導などがその項目としてあるが、ここでは「研究指定」「朝読書」「図書館活用」「ITC」「補充」「土曜学習サポート」地域の「学力調査」学校の「学力調査」「学力分析」「テストの結果分析」「習熟度グループ編成」「個別指導・発展学習」などが、その具体的な項目として「調査」されている。 つまり、場と方法ばかりの問いである。そしてそれは、これまでその見通しや展望、そして余裕も自由もない中で、現場におしつけられ、ますます教師達の努力をむなしいものにしていったことばかりであり、何も目新しいものはない。

 さらに、10.「国語科の指導方法」では、「補充」「発展的学習」「家庭学習」という、場面の設定についての問いがあり、つづいて、「目的や相手に応じて話したり訊いたりする授業」「書く習慣を付ける授業」「様々な文章を読む習慣を付ける授業」「漢字・語句などの基礎的・基本的な事項を定着させる授業」、さらには「国語の授業で」の「教科担任制を実施していたか」が最後に問われている。

 どこまでいっても、方法論と量的対応を意識しての設問である。

 また、下線を引いた三点は、あの「読解力向上プログラム」で、PISAの結果は、日本の子どもたちが、あのような問題に出合ったことがなかったためのもので、「学力低下」はない、とした「弁解」の結果として、あのようなテストに慣れるために、これからこのような方法を多用していくことを提示したことの繰り返しである。

 ここには、「内容」の提起はない。つまり「質的」な検討のための項目はまったくない。あるのは、「量的」な具体策や方法論だけの問いである。

 学力問題は、量的な対応だけでは問題解決にはならない。今、必要なのは、学習指導要領・国語科の検討をふまえた「質的」な検討とそれにもとづく対応である。

 ほんとうに、文科省はこのような小手先の対応で子どもたちの力が伸びると考えているのだろうか。それとも、「教育改革」でそこここに示された「ひとにぎりのエリートが養成されればいい。あとは黙って働く人づくりを」という「本音」がここに現れてきているのだろうか。

 このように見てくると、私たちのとりくみは、今こそ現状をおさえて、教師としての課題だけでなく、国民全体の課題であることを提起していくこと、それが、教育基本法の改悪、そして具体化に対していく主体づくりのためにも重要であると強く思わせられる。

 この分析もまだまだ検討を深めなければならないことが多いと考えている。京都教育センター・教科研究会・国語部会でも、論議をさらに深めたい。

              (国語部会事務局)

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