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京都教育センター            2007.5.3
    
教科教育研究会・国語部会通信
                第16号


前号よりつづく 「全国学力テスト」を斬る(2)

 このように見てくると、この「全国学力テスト」は、その内容から見て、子どもたちの「国語の学力」を正確にとらえるものではないと考えられる。それは、この問題構成では、全体の力は到底測ることはできない、言い換えれば何がどのように弱さがあるのかが判断できないと思われるからである。

 このことは、致命的な問題ではないか。また、そうであるからこそ、「内容」は問題にできず、「結果」、簡単に言えば「点数」だけが独り歩きする、正確に言えば独り歩きさせられることとなるのは、目に見えている。

  A「問題」のさらに具体的な検討をもう少し、個々の問題・設問について具体的に分析・検討していきたい。まず、国語Aの問題を見ていきたい。

 言語の教育については、前号の(2)の@でふれたが、その体系の全体を見ると、あまりにも偏りと狭さが問題となる。これが最も大きい問題であろう。その他で気になる問題をあげるとすると、漢字の読みについては、その語が子どもたちの生活に身近なものかどうかで正答率は大きく変わってくる。それで言えば、この三問はどうなのだろうか。読むのは前学年のものと規定されているのだが。また、漢字の書きについても、同様の傾向があるが、これき、前々学年との規定から、中学年の配当文字が出題されているが。漢字辞典の活用を意図した問題については、その方法を漢字についての知識で考えるというより、問題文の読みで判断するという、読みとりに中心が置かれるものである気もするのが、気になるところである。

  もっとも問題になるのは、説明文教育としての、説明的論理的文章の読みの力を測ることをめざす設問の少なさである。それは、もともと「読解力不足」なる論議がこの「全国学力テスト」実施の大きな要因となったはずであるが、それをしっかり検証するものを把握できないものでは、実施の意味は半減すると言うべきだろう。この分野の問題としては、「事柄の読み」と「要旨の把握」と考えられる問題が1問ずつしかない。「文章構成の把握」や「論理の読み」などはまったくない。これでいいのだろうか。

 ここから見えるのは、やはり「読解力低下」の本質をとらえられていない文科省の無見識さと確たる姿勢のなさである。学力問題で、点数だけを気にすることは、点数だけが問題となるということを端的に表しているのではないだろうか。  文学教育については、説明文教育での「論理の読み」に対して、「形象の読み」を本質とすることを考えると、たった1問しか設定してないことは大きな問題としても、問題内容としては適正なものだと思われる。しかし、「形象の読みの力」をしっかり把握するためには、さらに情景描写や人物形象、総合的な形象を読む問題、文学を読む楽しさを問う問題等の配列が必要なのではないだろうか。

 作文教育については、逆説的に言えば、文科省が言う「書くこと」とは、書く技術・技能にすぎないことを端的に表す問題設定である。現行の指導要領・国語科が「詳細な読みに偏る文学の読みは問題」であるということとともに、「生活を書くことでは書く力は伸びない」とした、生活綴方攻撃の具体的な現れではあるが、自分を表現していくことこそ、書く力を伸ばすものであること、つまり主体的に書くことが書く力を伸ばすことを再認識させるものとなっているのではないか。文科省は、PISAの結果を受けて、基本的には、「書くこと」に慣れる、問題の形式に慣れる訓練をすることに重点を置いている、いやそこにしか重点を置けないでいることの誤りは明らかである。PIASでも、日本の子どもたちの問題は、自分の意見についての記述を求められた問題の「白紙解答」があまりにも多かったことには、「慣れ」や「訓練」では対応できないことがはっきりしているからである。

 現在の国語科指導に厳しい意見をもつ研究者や実践者は、「国語科は、小論文対策教科に堕落したのではないか」と指摘しているが、これでは、「小論文対策」にもならないだろう。  もうひとつ、話す・聞く領域の問題が1問設定されているが、これなど、国語教育としては問題外と言える。スピーチにふさわしいものと考えられる「話し方」を問うているが、これは、技術というより態度に近い。「話す」力は、まずもって、「何を話すか」であり、その意味と自分の問題意識が問われる。そして、「どう話すか」が問題になる。しかし、ここでも「何を」に基本的に規定される。技術や技能を問題にすること自体が問題なのではないが、本質を見失った指導は、意味をもたないばかりではなく、主体性までもスポイルすることになるのではないか。国語教育にとって「話す・聞く」は、その内容としての意味をもたないということは、じつはかなり前にもう明らかになっていた。そうした実践的な積み重ねを無視する文科省の専門性のなさがことの本質だろう。

 このように見てくると、「基本的な知識」の調査として、文科省のいう「身につけておかなければ後の学年の学習内容に影響を及ぼす内容」とは、いったいどんなものとして考えられているのかが疑問となってくる。また、文科省は、国語科指導の基礎・基本は「話す・聞く」であると繰り返し強調してきていた。しかし、その領域からの出題は、1問のみである。6の問題についても「話す・聞く」としているが、これはメモのとり方を問うものであり、「書くこと」の問題であるとしか考えられない。だとすると、この「『話す・聞く』が基礎・基本」ということも破綻している。

 私たちは、ただ単に「学力テスト」を実施することについて反対し、批判することだけでなく、今こそ国語教育の構造と「ことばの力」を伸ばす教育活動、「ことばの力」を伸ばすことで人間的成長をめざす教育実践としての国語教育について、もっと発言していかなければならないのではないだろうか。

 これは、現場教師たちに対してだけでなく、父母・国民に対しても、これまでの私たちの理論的実践的な豊かなつみあげを提示しながら、それを提起していくことこそ、必要なのではないだろうか。そうすることが、学習指導要領・国語科を国語教育としてふさわしいものに変え、すべての子どもの力を伸ばす国語教育実践が可能になるのではないか。  国語Bについても、検討していきたい。

 国語Bが、リテラシーを意識し、「活用」をめざしての問題配列であると文科省は説明している。ほんとうに、それにふさわしいものになっているのだろうか。

 たしかに、問題傾向としては、「実生活の場面」での設定となってる。しかし、それはAで問われていることの焼き直しにしか見えない。

 例えば、説明文教育、いいかえれば「読解リテラシー」の問題として設定してあるのだろう、2や4にしても、それほど力を複合させてとか活用してとか言えるものではなく、2の三の(2)ぐらいしかそれに当たると思えるものはない。そして、この問題にしても、日常的に生活を見、綴り、意識的主体的に書くことを作文教育として進めていれば、それほど困難な問題ではない。むしろ、そういう作文教育実践こそが、リテラシーの力をつけ、伸ばすものだと言える。それを否定しておいて、技術的技能的にそれをすすめようとすることは、本質を見失うと言うことと方法論としてだけ見ずに形骸化させていくという、二重の誤りをおかすものだと言えるのではないか。

 その他の問題では、話しあいの場面を文で再現したり、社会科的な資料を提示したり、新聞づくりをしていくことを取り上げたり、感想文を対比して読ませたり、チラシ広告を出してきたりと、場面だけを生活化してみせているが、いずれにも必然性は感じられず、本質的に「実生活の様々な場面に活用」とは、きわめて表面的なものであること、到底「課題解決のための構想を立て、実践し、評価・改善する力」の診断にはならないと思われてならない。

 先に、この国語Bは、PISAの問題を形態・形式として慣れ、訓練するものではないかと書いたが、詳細に見てくると、それが強まってくる。

 やはり、この「全国学力テスト」は、斬らねばならない。

 そして、どのような配点で点数化されるのかも疑問であるし、この「結果」がどう診断されるのか、さらには、どんな政策に具体化されるのかが、極めて心配である。  この点について、現場教師として見ていくだけでなく、実際にテストを受けた子どもたち、不安をもつ父母たちとともに注視し、それを論議していくことが必要だと思われる。

 今後、「学習指導要領の改訂」がすすめられており、今年中、遅くとも今年度中に出されるという。さらに、それを受けて「国語教科書」の編集がすすめられている。これらが、どのようなものとして姿を現してくるか、私たちはしっかりと見守り、それに対して発言していくことも課題となってくる。

 京都教育センター・教科教育研究会・国語部会として、こうした動き、流れに対して、京都教育センター全体の課題として考え、具体的なとりくみ・活動を展開していくことを、強く望みたい。それが、たいへん厳しい状況の中におかれ、それでもねばり強い実践をつづけている現場教師たちをはげまし、ともに展望をひらくことになると考える。

 この分析・検討も、少しでも早く提起したいという想いがあり、まだまだ不十分なところが多いと考えている。さまざまな場で論議し、意見を寄せて頂きたい。

                                                      ( 国語部会事務局 )
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