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「全国学力テスト(国語)」を斬る 〜子どもたちの「国語の学力」はほんとうに測ることができるのか〜 多くの疑問点がさまざまな観点から出される中、文科省は「全国学力テスト」を実施した。これは、「改正教育基本法」のもとでの、最初の全国的な施策である。その意味をしっかりと検討することが、今、私たちの課題である。 この「全国学力テスト」の意味するものは何か。それは、さまざまな観点から論議が進められている。それは、 1.学力テストが全国一斉に強制されることについて、どのような問題があるのか 2.学力テストの結果が、どのように取り扱われるのか 3.さらにその結果が、どのように教育政策として取り込まれるのか 等についてである。 そして、1については、全国唯一犬山市がこのテストの実施をしなかったが、それは、教育の成果についてはその現場が責任をもち、課題を現場に合わせて追求していくことこそが教育というしごとの本質であり、子どもたちを大切にすることであることを提起したという点で、大きな意義をもつものであると言える。 また、2については、このテストに付随しての「生活調査」等が、その実施前から、文科省としての責任を回避し、家庭や地域にその責任を転嫁しようとする姿勢であることを自ら明らかにした。子どもたちはそれぞれの家庭・地域の中で生活し、そこで育つ。だからこそ、地域や家庭の文化的状況、教育的環境を整えるのが政策として必要である。それを自己責任であるかのように見せかけることは許されない。それは、もっと厳しく指摘されるべきではないだろうか。 さらに、3については、何ら具体化した提示はない。もっとも、「学校評価」のおしつけや「教育免許の更新」など、あたかもその責任が学校や教師にあるとする教育政策全般を貫く考え方では、例え「課題」が明らかになったとしても、それが克服されていくことが正当に示されるとは考えにくい。 こういった視点からの問題の整理とそれに対する批判はもっともっと必要である。しかし、それを検討する上でも、この「全国学力テスト」の「内容」をしっかりと検討しなければならな ここでは、その観点から、全国学力テスト・国語(小学校)の内容について検討したい。 (1)問題の内容と構成、テストの実施要領と出題の意図 @内容と構成 国語A
国語B
A実施要領と出題の意図 国語は、AとBに分けられ、Aは、20分で算数Aとともに一時間で受け、Bは40分で一時間を使って受けるとされている。 また、このAとBの区別は、Aは「知識」を、そしてBは「活用」の力をみるものとして設定されているという。 文科省より提示されている「調査の内容」は、 A ・身につけておかなければ後の学年等の学習内容に影響を及ぼす内容 ・実生活において不可欠であり、常に活用できるようになっていることが望ましい知識・技能 B ・知識・技能を実生活の様々な場面に活用する力 ・様々な課題解決のための構想を立て、実践し、評価・改善する力となっている。 (2)「全国学力テスト」を斬る テストとそれにまつわることの概要を提示したが、これを私たちはどう分析・検討し、何を提起していかなければならないのかを考えていきたい。それは、次のようなことではないか。 @内容は、「学力の調査」として妥当なものであるのか 私たちは、国語教育の構造を三分野でとらえている。それはとりもなおさず、子どもたちにつけていきたい「ことばの力」を国語教育として構造的に考えているということである。学習指導要領・国語科のそれは、本質的に違う。したがって、単純な比較はできないが、その本質的な問題点が対比することで明確になる。 三分野の観点での構成を分析すると、次のようになる。
テストの問題が三領域一事項で出されているのだから、それが体系も系統性もないものであるのは必然的な帰結であるとはいえ、なんともその内容が雑多であることに失望することを禁じ得ない。 言うまでもなく、その目的を「学力の調査」におくなら、教科としての国語教育の構造をどうとらえるかがどう反映されているか、そしてそれが適切であるのかが、まず問われる。 そこから、まず、この「全国学力テスト・国語(小)」には、次のような問題があると指摘できるだろう。 1.国語教育の領域を、言語活動の場面で三領域(基本的には、四領域−話す・聞く、読む、書く)で設定すること自体が破綻している。 2.したがって、その領域での体系・系統は、まったく見られないと言ってよい。 3.国語Aの、分野別のアンバランス、とりわけ文学教育・作文教育の「学力」はまったく把握できるものではない。 4.国語Bでも、Aの内容をおさえての活用が、きわめて技術的技能的なものに矮小化されている。 また、そこから、国語Aだけ見ても、次のような疑問がわいてくる。 まず、「言語事項」といわれるものには、明確な体系はないのではないか。問題数としては、総問題数の半分近くあるのだが、それはかなりアンバランスなものとなっている。言語の学習としては、「表記」「語い」「文法」がその体系となる。そして、「表記」には「文字」と「表記法」がふくまれるが、設問は、文字の中の漢字に限られている。漢字の読み・書き・操作が点数化しやすいとはいえ、それだけに限定していいのだろうか。また、「語い」にふくまれる「語意」「語種」「語構成」の問題は、全くない。また、「文法」は「品詞」「構文」を内容とするが、ここでは、教科書を教材との関連が問題となるのではないか。学習指導要領・国語科の「言語事項」の曖昧さを原因として、教科書会社が取り入れる文法教材(品詞教材・構文教材)は、まったく恣意的なものとなり、各教科書会社間の共通性、統一性はない。だから、ここでとりあげられている品詞としての「接続語」「指示語」と、構文教材としての「複合文」について、教材化している教科書は限られており、その内容にも際がるのではいるのではないか。 説明文教育についていえば、その問題数は2問しか配当されていない。もともと「読む」として、説明文と文学とを区別していない学習指導要領・国語科だが、それにしても文学教育としての1問とあわせて、3問しかない。これで、「読む力」を調査するのか。 また、作文教育としての設問は、ただの2問だけだということだけでなく、それが「メモの取り方」だけであることには、驚く。文章表現の基礎としての問題としても、もう少し内容のあるものにならないのか。もちろん、そうだとしても「表現する」ことの意味は、おさえられていないのだが。ただ、子どもたちが主体的に書けるかどうかは別として、国語Bの2には、自分の意見を書く問題があるが。 国語Bについては、ずいぶんOECDのリテラシーの問題が意識されていると感じる。 そのことについて、好意的に評価する研究者もいるようだが、これらの問題は、その形式に慣れさせるためのものではないか、と思ってしまう。とりわけ、「書くこと」を多用していることや、二つの文章を対比して読むこと、箇条書きにまとめることなどは、問題としてあまり必然的ではないと思われ、 それを強く感じさせる。 次号では、もう少し各問題を詳細に見ていきたい。 |