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京都教育センター            2007.2.9
    
教科教育研究会・国語部会通信
                第13号


京都教育センター冬季研
     国語分科会(第7分科会)で、何が討議されたか

 国語部会では、一昨年は「子どもたちの『ことばの力』の現状とその問題点をとらえ、国語教育の課題を考える」、昨年は「『ことばの力』『国語の学力』の現状と問題点を深めよう」として、分科会をとりくんできた。今年度は、それをふまえて「『ことばの力』とは何か〜人間形成の国語教育の実践をめざして〜」をテーマとして提起と論議をすすめた。

 また また国語部会では、今年度のとりくみとして11月公開研を第3回「国語教育の危機、どうする!」集会にとりくみ、国語教育全般の問題・課題とともに、言語教育・文学教育・作文教育のそれぞれの現状と実践的課題について深めている。

 今回の冬季研分科会はそれを基調としたものでもある。三つの提起とそれを深める討論は、実り多いものとなった。以下、その提起と討論の概要である。

提起1「『国語力』を批判する」/提起・得丸浩一

 2004年11月に文化審議会の出した「これからの時代に求められる国語力」は、2002年2月に、当時の遠山文科相が諮問したものについての答申である。ここで使われた「国語力」という文言は、それ以後の国語教育についての論述、教育課程や指導要領の論議にたびたび出てくることとなる。

 しかし、いかにも漠とした言葉であり、その実態・内容はとらえにくい。しかし、それが何を意味しどのような国語教育を意図しているのかをしっかりとらえることは私たちにとって大きな課題となる。

  得丸提起は、それについて、「情緒力」という言葉をキーワードとしてその論議がどう進められたかを議事録から丁寧に追い、分析したものであった。

 もともと遠山諮問は、諮問理由のトップに「文化の基盤として国語を重視すべきこと」を揚げ、「我が国の長い歴史の中で培われてきた古典などの伝統的な文化を理解し、豊かな感性や情緒を整えること」などの記述に、国家主義的な要素を強く持つものである。

 この審議会の「情緒力」論議もこの線に沿ったものである。そのなかで、第2回の会議から言葉として出されていたこの「情緒力」が、2003年1月の「審議過程の概要」では入っていなかったが、それ以後復活し、最終答申には、賛否両論がある中、 近年の日本社会に見られる人心などの荒廃が、人間として持つべき感性・情緒を理解する力、すなわち情緒力の欠如に起因する部分が大きいと考えられることも問題である。情緒力とはここでは、例えば他人の痛みを自分の痛みとして感じる心、美的感性、もののあわれ、懐かしさ、家族愛、郷土愛、日本の文化・伝統・自然を愛する祖国愛、名誉や恥といった社会的・文化的な価値にかかわる感性・情緒を自らのものとして受け止め、理解できる力である。  この力は自然に身に付くものではなく、主に国語教育を通して体得されるものである。 とまとめられている。

 国語教育が「『愛国心』注入科目」としての位置を明確にして姿を現すことに、もっと警戒心をもたなければならないのではないだろうか。

提起2「国語教育でめざす『ことばの力』とは何か」/提起・浅尾紘也

 得丸提起のように、「国語力」「情緒力」などといった曖昧で恣意的な意図を持った言葉をちりばめることで、国語教育の本質とその構造は、ますます見えにくくなり、これまでの技術主義・技能主義的な国語科指導に加えて、思想教育としての指導が強化されようとしている中、私たちのこれまでの実践的成果をふまえての国語教育理論とその目標となる「ことばの力」をどう伸ばしていくのかを考えることは、緊急の課題と言える。

 浅尾提起は、その国語教育の構造とそこでの「ことばの力」を提示したものであった。  京都の教研国語分科会、サークル活動などの自主的研究活動の中で創造的に提起された「京都の国語教育・三分野説」は、それに対しての明確な視点と答えをもつ国語教育構造論である。

 国語教育の構造を、言語教育・文学教育・作文教育としてとらえる三分野説は、その各分野での「ことばの力」も、明確に提示している。

 言語教育では、言語についての学習(表記・語い・文法など)をふまえての説明文教育で、ことばは「論理」として磨かれる。それは、「論理としてのことばの力」として考えられる。

 文学教育では、文学作品を「形象」として読むことを通しての文学体験を進めることがめざされること、すなわち「形象としてのことばの力」をのばしていくことがめざされねばならない。

 作文教育では、自分の体験や感動、意見や主張を、「生活」に根ざしたことばで言語化し、表現していくこと、つまり「生活としてのことばの力」が深く、豊かに身についていくことが大切となる。

 もちろん、ことば(言語)はこの三つの側面に分けたとしても、それらが分かちがたくかかわったものではあるが、それぞれの分野での実践の中心的課題をしっかりと意識していく実践がめざされることが、「ことばの力を伸ばしていくことで人間的な成長をめざす国語教育(人格形成をめざす国語教育)」として大切である。

 しかしながら現状は、「教材すらない言語の教育」「読まない説明文教育」「読まない文学教育」「書かない作文教育」という、悲惨な状況が続く。

 しかしながら視点を変えてみると、「教材すらない言語の教育」で、母語としての言語についての体系的系統的な学習をしないことで、主体的に読み、書く力が弱体化すること、「読まない説明文教育」で、まちがった論理もそのまま受動的に是認してしまうこと、「読まない文学教育」で、虚構という独自の方法での、現実をしっかりとらえそれを乗り越える想像力を培うことを阻害されること、「書かない作文教育」で、自分を表現することなく、受身的に「情報整理」する技術だけを身につけることに矮小化されることとなる。そして、それが現実に進められている。

 現状での、「読解力」の低下、そして「表現力」の弱体化が、このような現実からきているものであることと、それを乗り越える、たしかな国語教育について、広く提起していくことが、今こそ大切ではないだろうか。

提起3「『ことばの力』を伸ばす国語教育の実践を考える」/提起・西條昭男

 ふたつの提起をふまえて、それでは実践的にどうとりくむのかについて、西條提起は、具体的に文学教育と作文教育についての提起をした。

 文学教育では、1年「たぬきの糸車」の実践で、子どもの生活と文学の読みとのかかわりについて、
@子どもの生活が読みに現れる、
Aことばを具体的なイメージに置き換える、
B文学の授業の中での心地よさを大切にすること、
C人物の捉え方の具体性を大切にすることを提起した。
 2年「お手紙」では、友だちの読みに自分の読みを重ねることで、読みが広がること、そしてさらに自分の生き方や確かめられることを提起した。4年「一つの花」では、授業での子どもたちの発言を紹介しつつ、ことばを引き出すことの大切さを提起した。さらに、文学の授業として、
@作品をしっかり読ませること(音読・黙読など)、
A自由に発言できる教室を創ること、
B授業で想いがことばになるまで待つことを大切にしていくことが、自分の読みをもつことを基本として、子どもの読みを深いものにし、授業で豊かなものとなることを提起した。

 また、教科書教材の現状では、いくつかの教材を具体的に挙げながら、
@「死」についての描写が曖昧で、リアルに学び得ないこと(「ちいちゃんのかげおくり」など)
A作品の結末に子どもたちの失望が見えること(「ごんぎつね」「あらしのよるに」など)
B作品のテーマが持つ危うさなど、文科省の教材選択の視点を注意深く見ていくことの必要性(「海の命」など)も提起した。

 作文教育としては、高学年での詩の授業の実践や、文学教材での感想文の実践を報告しつつ、厳しい時代を生きている子どもたちが、人間的な心を見失うことのないようにとねがいを込めて、自分の想いをしっかりと綴らせることの大切さを提起した。実践の詩の指導での、子どもたちの想いを引き出し、自分のことばて表現する楽しさと大切さを示した実践、文学の授業を通して、自分の読みをもち、それを書くことそして読み合うことの意味を明らかにした実践は、「ことばの力」を伸ばす実践の視点として、明確なものを示していた。


分科会討論から

 理論提起としての得丸提起・浅尾提起を受けての討議では、現在進められている学習指導要領・教育課程の検討作業が、単なる言葉遊びに終わるのではなく、その方向性を厳しく見ていくこと、「人格形成をめざす国語教育」の視点から批判的に見、それを乗り越える実践を進めていくことの大切さが、さまざまな観点から出された。

 また、実践的提起としての西條提起では、文学教育・作文教育の国語教育実践を進めていく基本的な視点を確認しつつ、生活に根ざしたことばの追求の大切さを確認した。

 また、論議の中で、教科書文学教材の偏りや「文学を文学として読む」ことを逸脱することの危うさが論議され、子どもたちの主体的な学習が「ことばの力」を伸ばすことであり、その実践をどう進めるかが論議された。


おわりに

 現在、子どもたちの「ことばの力」が伸ばされていない状況の本質をとらえることなく、またその「責任」を誰もとることなく、内容のない言葉遊び(教育再生・ゆとり見直し・国語力向上などなど)でごまかし、本質的な改革は何もとりくまれないということが明らかになってきている。

 国語教育においても、今、教科としての本質とその実践的構造を提示することが、子どもたちを豊かに育てていくために大切であると思われる。

 今後の動きを厳しく見、批判しつつ、実践的な提起をしっかりと展開していきたい。

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