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●●この記録は、京都教育センター事務局の責任でまとめたものです。●●
教育基本法・連続(月例)学習会
          2004へのおさそい

*「子どもたちが主人公のクラスづくり・学校づくり」
  そのためには、学級活動・部活動・生徒会活動などが自主的・民主的に活動されていることではないでしょうか・・・・。このことが、「・・・・政治的教養は、教育上これを尊重されなければならない。」を、具体的に実践することのひとつではないでしょうか・・・・!
*選挙ともなれば、特にいろいろと語られるが・・・・、その訴え!、語られる内容こそが重要なのに、争点となるべき内容についての報道よりも、「**党の支持率がどうのこうの・・」的レベルで終始しがちになり、結果として投票率の低下を招き、選挙制度上の問題も含めて、真に国民の意見が反映されていない政治状況を作り出しているようにさえ思われるのだが・・・・いかがなものか?
*教育基本法第8条が、しっかりと学校教育の中に生かされていれば、諸課題を克服することもできるとも思うのだが・・・・、いかがでしょうか!
*みんなで語り合い学習を深めましょう。みなさまのご参加を期待しております。
 

 第八条(政治教育)
 
  良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。  
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
教育基本法連続(月例)第九回学習会記録
日時・2004年9月18日(土)午前10時〜12時      
場所・京都教育センター室                   
司会:磯崎(城南高校・高校問題研究会)          
記録:浅井定雄(京都教育センター)             
話題提供:西野悠紀子(元府立高校教師)          
 
政治教育「子どもたちの自主・自治活動」

 
司会:おはようございます。第9回目という事で教育基本法の第8条について学習会を行う。今日は9月18日、満州事変の初まりの日。今日のイラク戦争・憲法改悪の動き、・・・子どもたちはどう思っているのか。大事な政治教育の問題を西野先生にお話いただく。

 
話題提供

 
西野悠紀子:27年間高校の教師をしていて、この3月退職した。自分は文学部で、こういうことは専門外だが、自分の経験から話をしたい。

 
「政治教育と政治参加・・・・教育基本法第8条をめぐって・・・・」

 
 60年安保の頃に高校に入った。先生はデモに行く。高校生たちも集会をした。公民は1年生で学習した。政治に対して当時の高校生は敏感だった。大学に入って70年頃に大学紛争に入っていた。大学占拠に抗議して、逆封鎖。3日間閉じこもった。しかし、占拠されて1年間、大学に入れなかった。喫茶店で「大学とは」「教育とは」ということを議論した。教育と政治は密接に絡んでいる。「中立」といっても、それはどういうことなのか考えなければならない。

 アテネオリンピックでも日の丸がさかんに振られていたが、その中でナショナリズムが培養されている。沖縄(ヘリコプター墜落事故)の問題も飛んでしまって、国民が政治から遠ざけられていく。こんな中だからこそ、教育基本法の学習は重要。

 
 教育基本法第8条の中味。資料の最後に参考文献をあげた。『教育基本法を考える』というのはわかりやすい本、それと『今教育基本法を読む』この2つは良い本だ。

 第8条は、2つの項目から成り立っている。1項目目は「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。」また2項目目は「法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」とある。第8条と第9条は非常によく似た内容。戦争が終わって、戦前の教育の反省から出てきたものである。

 なぜこの条文があるか。その理由は、第二次世界大戦の反省から日本国憲法が制定され、国民主権が明記された。そしてその理念が憲法前文に記されている。


日本国憲法前文から
(前略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、(略)
 


 そして、教育基本法によって、教育は、主権者である国民を育てる教育であることが明らかにされた。これには戦前の教育への反省がある。戦前の教育は、天皇に忠誠の臣民づくりが目的だった。戦前の政治は主権者である天皇を補佐するのが目的だった。小学校など、1948年まで国民学校令が続いた。また大学については国家のためになるエリート養成が、大学の目的であった。


*(国民学校令)−1941年
第1条 国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的鍛錬ヲ為スヲ以ッテ目的トス
*(帝国大学令)−1886年
第1条 帝国大学ハ国家ノ須要ニ応ズル学術技芸ヲ教授シ及並蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス
 


 丸山真男「日本ファシズムの思想と運動」(1947『現代政治の思想と行動』所収)によれば、ファシズムを支えるのは中産階層であり、ごく普通の人々と、極く一部のエリートのための教育に分かれていた。「天皇は神」と教えられ、これを否定する教育を(大学で)受けられたのは、ごく一部の者のみだった。多くの国民はそういった教育を受けられないで、支配体制を支えた。一般の大衆は、自由な教育を受けられなかった、それへの反省としてこの条文が生まれた。 


 文部省教育法研究会「教育基本法の解説」には、「『良識ある』というのは、単なる常識を、単なる常識をもつ以上に『十分な知識を持ち健全な批判力を備えた』ということである。『公民』というのは、最も広い意味においては、『社会団体の一員として積極的に社会を形成していく場合の国民』ということができよう」と記されており、具体的内容として、@民主政治、政党、憲法、地方自治等、現代民主政治上の各種の制度についての知識。A現実の政治の理解力、及びこれに対する公正な批判力。B民主国家の公民として必要な政治道徳及び政治的信念。(『教育基本法を考える』より)と説明されている。このように、1947年〜8年の段階では、政治の仕組みだけではなく、「理解力」「批判力」も学ぶとされてきた。

 政治的教養をどう身につけるかと言う点で、1つは「社会科」の創設があり、公民的分野での教育が期待された。また2つ目には「自治的活動の活発化」が期待された。

 文部省教育法令研究会の『教育基本法の解説』では「(第1項)学校教育本来の目的を達成するため、その中に一党一派の政治的偏見が持ち込まれてはならない。(略)(第2項)学校が政治的闘争の舞台となることは避けなくてはならない。」とあり、文部省の解説では「政治教育を達成するのに障害となるがごとき「学校の政治的活動」を問題としている。「一党一派の政治的見解」を政治教育の場で無視するがごときまでも予定していない。第2項目の主語が「学校」となっている事について「「たとえば学校自体が某政党を支持ないし反対する態度表明をするがごときを想定している」と理解している。」とされている。また、第1項の本来の主旨は非常に限定されたものである。市民としての教職員の活動をさまたげるものではない。

 
 戦後の「冷戦」と占領政策の転換の中で、レッドーパージが行われたり、公務員の政治活動の制限(=国家公務員法102条)が行われてきた。1949年「教育公務員特例法」第21条3項で政治的行為の制限が設けられ、1954年に「教育二法」のもくろみがなされた。「教育公務員特例法の一部を改正する法律案」によって、国家公務員法102条を適用し、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」は、「第3条 何人も、教育を利用し特定の政党その他の政治団体の政治勢力の伸張又は減退に資する目的を持って、学校教育法に規定する学校の職員を主たる構成員とする団体(その団体を主たる構成員とする団体を含む)の組織または活動を利用し、義務教育諸学校に勤務する教育職員に対し、これらの者が、義務教育諸学校の児童又は生徒に対して、特定の政党を支持させ、またはこれに反対させる教育を行うことを教唆し、またはせん動してはならない。 第4条(違反の場合、1年以下の懲役または3万円以下の罰金) 第5条(罪の請求−義務教育の場合教育委員会が請求)」とされた。

 この教育二法制定の際、「偏向教育の事例」として攻撃され、教職員の政治活動への弾圧が行われたのが「旭丘中学校事件」である。これによって人の教諭が免職とされた。詳しくは資料1を参照してほしい。この免職を不当として裁判を起こしたが、1973年最高裁判決があり、原告側敗訴となった。資料1の「占領軍勧告」の中に「この声明は何ら特定の政治団体を挙げなかったが、「細胞と称せられる政党の支部」は学校内に於いては、又は学校の名で主催される場合には不法になると言明した。」とあるように「細胞」云々と事実上特定の団体を指している。こうした動きの中で資料2にあるように、京都府教育委員会も「禁止」の方向へ向かっていっている。

 旭ケ丘中学校の実践は、はたしてそれに「違反」していたのか。(五十嵐顕・細野武男・伊ヶ崎暁生・寺島陽之助・山本正行編)『旭丘に光あれ−資料・旭丘中学校の記録』(あゆみ出版1978.1)によれば、決してそんな違反した内容をしていない。地域に根ざした教育、平和祭への参加など、ごく当たり前の教育をしてきた。しかしこれが「偏向教育」として批判される。その中で行政の政治教育への介入の結果、生徒に政治への関心を持たせる教育の萎縮が生まれてくることになる。それから、次第にどんどんと進んできて、最近では日の丸・君が代問題などで、「職務命令による教師の(政治的信条を含む)思想・信条の自由を侵害」する所まできている。これは、思想信条・内面の自由の問題でもあるが、同時に政治教育の問題でもある。東京都の教職員に対する「研修」の強要については、「職務命令違反」だけで強制をしている。

 
 生徒の自主活動について、京都における歴史を振り返ってみたい。(資料参照)1948年に、生徒自治会の研究協議会に各高校代表が参加した、指導は、京都軍政部だった。そして1949年に各高校に自治会結成された。府教委は、生徒の校内外での政治活動の指導基準を示した。1953年、京都府高等学校生徒会連絡協議会が結成された。これに基づき、5月に第1回の憲法擁護高校生弁論大会が開催され、これは1957年秋の、平和憲法記念『京都高校生の集い』討論集会へと発展していった。1960年、安保闘争が高まる中で、文部省通達「高等学校生徒会の連合的な組織について」(資料参照)を出し、全国的に高校生の生徒会校外活動の抑圧に乗り出した。しかし、京都の場合は、むしろ討論集会は拡大し、1963年からは春秋の2回開催となった。これには京都府が後援していたことや、府高同研の参加などがあり、規模の飛躍的拡大がもたらされたのである。そして、1968年に、私学教職員団体が主催者に加わり、『京都高校生の集い』討論集会は、文字通り、京都の全高校生の集会へと発展していった。1974には、公立高等学校長会が後援団体に参加。しかし(大学紛争後の頃から)生徒の自発的な意欲が次第に薄れていったように思う。政治の核がないというか、要求の多様化があったのではないか。1978年に蜷川民主府政の崩壊があり、府教育委員会の態度が変化して、府立学校の中での活動規制が強化されていった。現在では、公立高校では「個人参加」という形をとらざるを得なくなり、私学中心に維持されてきている。

 自分は8年前まで高校の現場にいた。アセンブリーの実施状況など(資料5)を参照してほしい。高校では、校内討論会をするが、政治に関心を持っている子どもはわずかで、「恋愛」とかに関心が集中する。討論中に当てて(指名して)も、「私も同じです」と答える生徒も多かった。また、(討論会など)そうした取り組み自身が縮小されきている。自分のいた高校は、今までリベラルにしていたが、高校生自身が力がなくなってきていると感じていた。

 今後の課題として、民主国家の一員として現実の政治の理解力、およびこれに対する公正な批判力を持つ人間を再びどのようにして育てていくのか、が課題と考えている。

 
質疑・交流

 
●レッドパージとは何か

●冷戦体制の中で米ソの対立が生まれる中で、占領軍(民主化とアメリカの政策にそった占領支配)が、初めは民主化を進めてきたが、米ソ対立の中で、日本を民主化するよりも「反共の壁」にしようと、共産党員とシンパを公職から追放していく。

●自分は、レッドパージ現場にいた。京都教職員の組合で幹部になっている人が「懲戒免職」で首になるということが起こった。

●隣のクラスの担任が社会を教えていたが、その先生がレッドパージに遭った。選挙への応援が理由とされたが、証拠集めに生徒の家に事情聴取に入ってきた。生徒は怖がって、学校でも話題になった。その先生は辞めさせられていった。

●高校に自治会ができた頃、1949年に高校1年生だった。はじめに高校自治会をつくった。しかし先生が「生徒会にしろ」と、自治会規約が破棄されて「先生の指導を受けるような」内容に変更されてしまった。京都府全体にも「自治会」から「生徒会」への変更がされたのではないか。

●H高校は「生徒会」であったが、O高校は伝統的に「自治会」で通している。

●郡部では教育委員会の圧力が、かなり強かったのではないか。

●(レジメ)3頁の1974年に、校長会が「高校生討論集会」に応援に参加。「高校生の意欲の低下、政治的なテーマがない」と言われたが・・・

●1970年代後半から、若者たちの政治的関心が薄まってきたと言われる。またコンピュータゲームが生まれてきて、子どもたちがバーチャルな世界に入ってきた。また民主府政がつぶれて、全体的な保守化の動きもある。

●自分の経験では、一番大きなのは「受験戦争の激化」であると思う。先生の方が無理に生徒会に勧誘していくが、子どもたちの後退が見られる。また、労働組合では「幹部の後継者育成」のために「評議委員会への参加」など、学校も行って良いなどの配慮があった。しかしレッドパージなどにより労働組合に参加しない人が増える。外から与えられた「民主化」にすぎなかった。

●「受験」に関して、今日では、生徒会活動に入るのも内申書を上げるためのもので、きわめて個人的な動機にもよる。

●現在、私立高校は基本的にはフェスティバルに流れ「討論は古いのではないか」として、もっと大きな枠組みになっている。ある意味では「公立春討」になってしまっている。個人参加で、規模としては10分の1ぐらいへと下回っている。高校生の関心の低下の背景には、行政の「教育政策」が根本にある。新学力観の中で「生徒会役員になれば、内申書が上がる」として希望者が多い。70年代に「三無主義」が生まれ、虚無的な空気が生まれた。背景には「能力主義的な教育の強化」・・・・クラスによって「進学組」「就職組」などに分けられている、というのがあった。「春討」(『京都高校生の集い』春季討論討論集会)についても、やはり府教委の政策で「公立高校施設は使えない」「ビラをまくことも認めない」「非合法活動扱い」しているなどがきわめて大きい影響をしている。他の内容は認めるが、こと「春討」に関しては「きわめて政治的な」対応をしていると考えざるを得ない。そんな中で「地下活動でもやろう」というのは少ない。高校生の意欲がなくなったのではなくて、今日の教育政策の中で、そうした後退が生み出されている。「討論」自体については、高校生は日常的には「討論する場」もない中で、「討論」を新鮮に感じている。しかし行政によって、これだけ弾圧されていれば、「そりゃあできないわな。」と思わざるを得ない。

●高校のPTA会長もしていたが、86年頃から高校生の自治会に対して、禁止的な処置が生まれた。「自治会費」自身についても校長が認めない、PTAからの補助も認めない、などの処置がとられる中で、活動も衰退を見せてきた。「春討」についても今までPTA連絡協議会にも後援要請が来ていたが、「教育委員会・校長会も後援していない」として、1986年から「後援しない」として受け付けなくなってきた。86年S高校は、まだクラスごとに討論をして、春討の提案者も決めて、準備・訓練をしてきた。

●1950年、R高校でスタートした。生徒自治会の活動について、アッセンブリーの時間は、当時、時間割の中できちんと保障されていた。その中できちんとやってきたのがO高校だった。時間、場所の保障がきちんとされてきた。戦前は「講堂」は「御真影」があったりして怖いという雰囲気もあったが、しかし講堂は出来ていた。しかしその後「体育館」となり、「講堂」のような「集会の場」としての確保がなくなり、体育的行事はともかく、(集会・討論など)文化的な行事が行いにくいというのがある。O高校がまだそれができているのは、講堂もまだ持っているからではないか。あとT高校ぐらいか。講堂をなぜなくしたのか?このことは、どうなのだろうかと、くやしい思いもある。講堂の存在価値は大きい。何度でも生徒が集会することが可能になる。集会する場所も保障されていないのが現在である。学校には講堂は絶対に必要だ。体育館は純粋に体育ができる場であってほしい。この根底には、「生徒たちを集まらせない」というのがあるのではないか。

●アッセンブリーはどうしてできたのか。

●アッセンブリー(生徒集会)というのは、初めて聞く言葉だ。戦後しばらくは、授業時間にも入っていた。

●場所の問題と、時間の問題がある。カリキュラムが変わって、時間がとれなくなっている。そしてクラス編成の問題、商業科と普通科とを分けるのか、ミックスクラスにするのかが論議になっていた。今は1類と2類に分かれていて、分けようとすれば今でも分けられるようになっている。修学旅行も別コースだ。

●小学校の教員をしていた。小学校でもつながることはある。学習指導要領が変えられて小学校でも「学級会」と言う時間が減らされてきている。以前は学級の会の時間が毎週1時間保障されていて、基礎的な討論も保障されていたが、それが削られてきている。PTA活動自体にも校長の意向が入ってきていて、PTA役員のなり手がなく、動員されることばかりで、「学校や園の言うことには逆らわない」というのが普通になってきている。先生同士も忙しくなってきて、話し合いをする場もない。夏休みも教育委員会の研修はたくさん強制されながら、自主的な研修にほんとうに行けなくなってしまっている。いろいろな意味で、教師も親も子どもの自主的に活動する場が奪われてきている。
●「今後の課題」のところで、「公正な判断力をどう育てていくのか」について、先生方に聞きたいと思う。学習指導要領が変わって「経験主義教育」から「詰め込み教育」に変わってきて、結局は行政に「負けてきた」のではないだろうか。教育政策の攻撃の中ではあるが、そうであっても、どのようにして批判力のある子どもを育てていくのか。

●以前に文部省が「批判力の育成」を言っていたという文章に驚きを感じる。批判力自身が大人の中に育っていなかったのではないか。今、イラク戦争の中で、高校生などが「おれは、こうだ。」とか、市町村合併の中で地方自治体が声をあげているなど、そうした「芽」も生まれているのではないか。

●高校で授業をしているが、今の情勢について授業でもふれている教師が少なくなってきている。校長も「イラク戦争」なども一言も言わない。生徒に訴えることが少ない。また討論の場を保障するどころか、「授業時間の確保」にやっきとなっている。生徒が集まって自主的に討論したり、企画したり、活動することができなくなっている。

●教員の採用、と言う問題もある。大学の自治会でがんばってきた人は「採用されない」あるいは「組合には入らない」と確約しなければ採用されないという現実がある。優秀な人材が採用されないという問題もある。採用されて、確実に教員になる者に対して教育委員会が「事前教育」をやる。子どもへの教育を考えた時、こうしたことは大問題なのに、社会的にはあまり問題にならない。教育行政の一貫した(悪い)姿勢があり、ここまでされてきた。

●今起こっているプロ野球のストは、とてもいい教材になるのではないか。その本質がわかるような形で提起されている。子どもたちといっしょに追求していきたい。それと子どもたちに、「その経験」を通じて「自分たちがやりたいことが実現できる道を見つけること」がなにも保障されていない。

●軍国主義的な内容の詰め込みを許さないためにも、「尊厳」とか言葉の定義を憲法に書き込まなければならない。「人間の尊厳」「畏敬」「尊重」「真理」など・・・。「殺すなかれ、残虐するなかれ、」ということも、究極的には法律に盛り込むことが必要だが、何よりも権力に対して我々の考えを明らかにすることが大切だ。

●国語の授業で、新聞記事を取り上げて授業に取り組んでいる。大江健三郎などの記事を取り上げることができている授業もあることを知ってほしい。子どもに考えさせようとしている。子どもからは「先生答えを先に教えてくれ」となることもあるが・・・

●主権者として育つためには、基礎学力、科学的なものの考え方、「たてわり」による集団活動、自立・・・・そして「自分の思いをしっかりと表現していける力」というものが大切だ。今、「青年・父母の対話集会2004.10.17」に取り組んでいる。「悲惨なものには関わりたくない」といっていた青年が、イラク問題なども学習する中で「社会との関わり」「自由な発想の中での様々な取り組み」が進められている。自主的な青年の取り組みとして発展している。地域の中でこういう活動を広めていくことが必要なのではないか。

●今後の課題で提起された問題だが、困難な状況の中で、なおかつ教育基本法の精神が生かされているのを感じる。討論はないが、イラク戦争などもほとんどの青年は賛成していない。ゆがめられてはいるが、我々の取り組みの中で脈々と流れているものはある。

 
まとめ

 
西野:京都の場合、行政の影響がきわめて大きい。行政の姿勢がかわると、いろいろなところが変わっている。現在の高校生も、戦前のようではなくて、民主的な感性は持っていると思う。先日、高校の教え子で「選挙に行った。」と言う子があった。その子は高校生のとき何かしていたということではないが、その高校生の思いが、今後の政治参加にどうつなげていけるのかを考えていきたい。

 
司会:行政こそが、特定の政治的立場を押しつけている。これをもっと問題にしなければならない。それと高校生への政治的教養を身につけることを大切にしていきたい。

 
事務局より、感想文などいろいろな意見をたくさんいただきたい。次の10月学習会「宗教教育」にもぜひたくさんのご参加をいただきたい。今日は24名参加だった。

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