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●●この記録は、京都教育センター事務局の責任でまとめたものです。●●


     第五条(男女共学)
 
  男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないもので
 あって、教育上男女の共学は、認められなければならない。




教育基本法連続(月例)第六回学習会記録


日時・2004年6月5日(土)午前10時〜12時
場所・京都教育センター室
司会:中須賀ツギ子(京都教育センター)
記録:浅井定雄(京都教育センター)
話題提供:安田雅子さん(京都教育センター)臼井照代さん(元府立高校校長)





     
男女共学 「共に学習することのすばらしさ」
 
 


司会:第6回目になった。「第5条、男女共学」の所。学校現場では、「男女共学・男女平等」というのは、なかなか受け入れられなかった。最近は、男女共同参画法など「形式的にはやっているよ」という形になっていて、時代の様変わりを感じる。今日は、年金問題等、他の集会も多い中で、参加者がいつもより少ないかもしれないが、充実した内容にしていきたい。今日の報告の中には、京都のすばらしい実践が詰まっているのではないかと思っている。


話題提供


安田雅子さん(京都教育センター)・・・・安田です。家庭科の教師をながくしていた。レジメのプリントに沿って話をしていきたい。


 
 教育基本法の第五条(男女共学)には「男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。」と記されている。戦前の教育ではどうだったのか?

 
(戦前の教育)

 
 一番目に、1941年(昭和16年)以前を見てみると、小学校令第1条では「小学校は児童身体の発達に留意して、道徳教育、国民教育の基礎並びにその生活に必須なる普通の知識、技能を授くるを本旨とす」と記されていた。
 二番目に、1941年(昭和16年)3月1日に、国民学校令(初等科6年、高等科2年)が出され、「国民学校は、皇国の道に則って、初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」と記され、ここから戦時色が強くなってきている。「皇国の道」などと言うのが入ってきている。この当時までは「家庭科」という言葉がまだでてはいなかった。
 三番目に、家庭科教育については、「初等科は4、5、6年女子に芸能科裁縫初歩を 各学年週2時間」とされ、「高等科は、1年、2年に芸能科 家事と裁縫で各5時間を課す」とされた。規則19条では「芸能科家事は、我が国家庭生活における女子の任務を知らしめ、実務を習得せしめ、婦徳の涵養に資するものとする。祭事、敬老、育児、住居、衛生、看護、家計等につき、家庭生活上、日常必須の事項を授くべし。裁縫と相保ち家を斉へて国に報ずるの精神を涵養すべし。国民科との関連に留意し、礼法を重んじ、我が国家庭生活の充実、改善について指導すべし。躾を重んじ、勤労の精神を養い、利用節約、清潔、整頓等について訓練すべし」とされた。家事や裁縫は、イデオロギー教科であって、単なる技能教科ではなかった。
 第四に、高等女学校における家庭科をみておきたい。1943年(昭和18年)3月2日に公布された文部省令高等女学校規程第一条では「高等女学校に於いては、教育に関する勅語の旨趣を奉体し、中学校令の本旨に基づき、左の事項に留意して生徒を教育すべし」とあり、5つの項目が記されていた。@教育の全般にわたって皇国の道を修得せしめ、国体に対する信念を深め、至誠、盡忠の精神に徹せしむべし。 A皇国の東亜及び世界に於ける使命を明らかにして、皇国女子たるの責務を自覚せしめ、職分をつくして、皇運を扶翼し奉る信念と実行力とを涵養すべし。 B学行を一体として心身を修練せしめ、皇国女子たるの徳操、識見並びに情操を陶冶し、創造活用の能を養い、強靱なる体力、気力を錬磨すべし。 C学校一体、修文練武に力むるの風を振作し温良貞淑にして質実を尚び、協同と勤労を重んずる気風を作興すべし。 D教育をして国民生活の実際に適切ならしむと共に、実践、実育に依る基礎として自発研究の態度を育成すべし、と。このように、高等女学校における家事裁縫も、単なる技能教科ではなく、きわめて顕著なイデオロギー教科であった。

 
(戦後の家庭に関する教科)
 


 (プリントの)2枚目を見て欲しい。戦後の家庭に関する教科がどのように取り扱われてきたのをみたい。
 まず、1947年(昭和22年)3月29日に、教育基本法と学校教育法が、5月23日には学校教育施行規則が公布され、いわゆる6・3・3・4の新学制が発足した。アメリカ占領軍の指導、つまり「家庭科は技能のみを教えよ」「男女共学にせよ」などの中で、文部省は1958年(昭和33年)10月1日には、それまでの一切の学習指導要領を廃止して、「中学校 学習指導要領」を官報に告示した。それまでの「職業・家庭」を必修教科は「技術・家庭」にあらため、各学年の目標、及び内容を「男子向き」と「女子向き」にわけた。各学年とも週3時間とし、選択教科は「家庭」と称し、週2時間とした。
 この流れをざっと見ると、1948年(昭和23年)10月11日付けで、「新制高等学校・教科課程の改正」が行われ、1949年(昭和24年)1月10日付けで、「新制高等学校 教科課程中、職業教科の改正について」で、家庭は「家庭」・・・・一般家庭、家族、保育、家庭経理、食物、被服とし、4科目をとらす。「家庭技芸に関する学科」としては、保育、保育実習、小児保健、小児栄養、栄養、食物、献立、調理、大量炊事、食物経理、被服材料、被服経理、色彩、衣装、仕立、手芸、被服史、家庭技芸に関するその他の教科、とされた。1955年(昭和30年)12月5日に高等学校学習指導要領一般編が示され、その中には「試案」の文字が抜けていた。家庭は、家庭技芸を統合して「家庭科」とし、その科目を24科目以上とした。1960年(昭和35年)10月15日付の官報では、高等学校学習指導要領の告示がなされ、家庭科は23科目以上とした。そして、
1963年(昭和38年)に、普通科女子に「家庭一般」4単位を必修とするようになった。

 
(家庭科教育に持ち込まれた家父長制家族制度)

 
 プリントの2枚目下に書いているが、こうした改定を通じて、 家庭科教育に持ち込まれた家父長制家族制度が問題となっている。経過的にみていきたい。
 第1期は、昭和20年から〜21年11月3日の日本国憲法が公布されるまでで、家父長的家族制度護持、家長(戸主)の権限強大、戸主の家督相続、親権制度の父権的色彩が濃厚で、男女の差別、男尊女卑、また結婚原因の不平等、家族国家観、忠孝一致、失業救済の家族制度、民法典の家父禄など、多くのものが残されていた。
 第2期は、上記から1951年(昭和26年)の平和条約の日米安全保障条約調印までで、憲法22条「婚姻は両性の合意のみ・・・・」などの規程を受け、民法と家庭の民主化が図られたが、政府はその中でも、家族制度を温存しようとした。
 第3期は、サンフランシスコ平和条約・日米安保条約締結から1956年(昭和31年)7月の第4回参院選挙後までの時期で、家族制度の復活政策がとられた。家族制度の護持ができなかった保守反動派は、サ条約の締結による占領行政の終了と日本の独立(実態はアメリカへの従属体制の再編成)の中で進めてきたものだ。
 第4期は、それ以後で、近代化政策が推し進められ、家庭にも反映していった。1958(昭和33年)6月出版された日経連(日本経営者団体連盟)の本では、「改正民法は行き過ぎ」とする保守勢力の意見を代弁した。それは技術革新と両立しない封建的意識を反映したものである。1955年(昭和30年)12月6日には、衆議院文教委員会で、松永東は「教育基本法の中に道徳目標がない。」といい、1957年(昭和37年)7月12日には、文部大臣となっていた松永東、武庫川女子大で「女尊男卑は行き過ぎ」と言い、修身教育を強調した。

 
(近代家庭)

 
 人々を家族制度の重圧から解放した「近代家庭」は、資本に奉仕する家庭である。商品として資本家に売り渡さなければならない。労働力の生産、再生産の機能を学んでいるのである。労働力の価値は、労働を維持し、再生産するために必要な次の三要素から成り立つ。@肉体的維持費 A家族の生活維持費 B労働力の教育費。
 1967年(昭和42年)、労働省による「賃金構造基本統計調査」によると、男の賃金100に対して女の賃金は、17歳以下で96、20〜29歳で72、30〜39歳で50、40〜49歳で41となっている。女子の低賃金をさらに引き下げる役割を果たしているものに、女性の内職労働の賃金がある。家内労働者の数は、昭和42年9月18日の朝日新聞の労働者調査では84万人であるが、都内の内職世帯だけでも51万あり、平均賃金は1時間あたり、東京江東区で56円20銭、静岡県で40円となっていた。また、婦人労働力の結婚退職、出産退職は不文律がある。20歳代退職制、入社の際、結婚退職の契約書を取る企業もあり、その時は社内結婚には会社が式会場を貸すようになっていると言う。「結婚退職制は違憲である」との判決もあるが、女子職員が45歳で退職すれば優遇条件を出すなどもある。

 このように家庭は、商品の販売市場としての機能を果たすようにされており、好況期には婦人労働者を吐き出し、不況期にはいると首を切られた女性(婦人労働者)を吸収できるのが近代家庭である。近代家庭は、労働運動の激化や革命運動の高揚に対する防波堤あるいは安全弁としての機能を果たしている。

 しかし、労働者の低賃金が、共働きや出稼ぎの激増を生み、その結果「出生率の低下」を生じるようになって、このような家庭の崩壊が経営者の搾取と収奪に障害となってくると、今度は「家庭づくり」の政策を採り始めるようになる。

 1962年(昭和37年)7月11日に、「人口資源向上対策に関する決議」を人口問題審議会が厚生大臣に建議し、1963年(昭和38年)1月14日には、「経済発展における人的能力開発の課題と対策」を経済審議会が総理大臣に答申した。さらに、1968年(昭和43年)3月27日の、総理大臣に対する家庭生活問題審議会の答申「あすの家庭生活のために」では、「高校を卒業した女子には、しばらくは企業で働き、結婚すれば退職し、子どもは保育所に預けたりしないで、母親が育てる。子どもが小学校へ行くようになり、経済的に苦しければ主婦がパートで働く。こういう女の生き方を、高校家庭科の授業で教えよ」と述べていた。この頃は、母親運動で、「ポストの数ほど保育所を!」という運動が盛んになっていた頃である。

 
(京都における高校家庭科共学の取り組み)

 
 京都における高校家庭科共学の取り組みですが、まず教育課程自主編成運動の登場がある。日教組38回中央委員会で「教育課程の自主編成」を決定して、日教組第14回定期大会では、「自主編成を教師相互の共同研究によって自主的に構成していかなければならない」とした。この頃は、教師に対する勤務評定の強行実施がされてきた頃だ(愛媛1957年(昭和32年)など)。外崎光広氏(高知大)は、教育課程の自主編成とは「教師が教育の中に仕組まれている支配階級の意図を暴き出し、これを国民のための教育に組み替えていく実践である。家庭科の自主編成とは、資本家階級に奉仕する家庭科を、国民のための家庭科に組み替えていくことである。」主張した。

 1963年(昭和38年)4月より、H高校定時制で、男女共学の「家庭一般」2単位の実施が始まった。この年から文部省は、高校家庭を女子のみの必修(4単位)ときめた。この前年頃から、男女の相違を強調する図書が多数発刊され(例:男の頭脳は女より重い)たが、市立高校では、この前年から組合教文部が主体的にカリキュラムの自主編成をはじめた。定時制部会では、定時制生徒の要求に見合った教育内容と質を検討し、普通科、商業科の違いをなるべく少なくしよう、高校三原則を守り、教科間の理解を深めようと、教文部会を頻繁に開いて学習した。文部省のカリキュラムでは、体育が女子より男子の時間数が多い。その代わり女子にはその間に家庭科をやるという性による差別がある。これをなくすために家庭科の女子のみの家庭科必修はなくし、男女共学2単位とするのが妥当であるとして、H高校定時制で家庭一般2単位を男女共学必修とするカリキュラムを決定、実施した。

 1973年(昭和48年)から、H高校定時制では、家庭一般4単位を必修とする。副読本を作成し、これは家庭科定時制部会でつくった。府立高校の場合は、教育課程の自主編成のため、校長会、教務主任会、各教科研究会、組合教文部などで、各々独自のカリキュラム案をつくり、討議した。各会議には出向いて家庭科の共学を訴えた。

 1972年(昭和47年)、1年間を府立高校、家庭科教員の共学へ向けての学習会を行う。府立高校では1973年には家庭一般を2年におくことにしたため、1972年度は、授業時間の持ち時間に大幅なゆとりが出、これを自主学習の時間とした。この頃、私達は、K参院議員の紹介で、文部省の課長補佐と交渉もした。全国的には1963年(昭和38年)以前から、全国高等学校校長会とそれに従順な家庭科教師による女子のみの必修の運動があり、1972年の改訂へ向けても、文部省へのハガキ作戦が熱中していた。

 1979年(昭和54年)には、「女性に対するあらゆる差別を撤廃する条約」が国連で採択され、1985年(昭和60年)には、日本政府が批准した。この中では日本の教育問題で家庭科の女子のみ必修が問題となり、共学へ大きく動いた。そして、1994年(平成6年)、文部省は、家庭一般を男女共学4単位を決定し、実施した。そして、1994年(平成6年)5月に、日本政府は「子どもの権利条約」を批准した。

 
(高校家庭科副読本に対する攻撃)

 
 京都府教委、府議会与党による高校家庭科副読本に対する攻撃が行われてきました。

 1984(昭和59年)、近畿テレビ(KBS)でいきなり府立高校家庭科研究会発行の家庭一般副読本に対し、偏向教育との攻撃をやった。副読本は、府高家庭科教員が、男女共学家庭一般を実施するに当たり、従来の教科書では、社会福祉、社会保障の問題は全くふれられていないこともあり、共学用に研究会が自主的に作成したものである。テレビでは「副読本は偏向している。社会主義思想をふきこむ内容で危険だ。」との批判であった。私達は直ちにK弁護士を先頭に、府教委並びにN氏等に抗議し、撤回を要求した。一応問題はおさまったが、府教委から「今後、各教科とも副読本を発行する場合は、府教委の許可をとること」ということになった。この副読本の中味は、後に実教出版から、家一の教科書として、かなりの部分を取りいれた。また、府高の保護者、特に母親たちからは、家庭共学の内容としてすばらしいという評価も得ている。

 
(男女共同参画法について)

 
 1999年(平成11年)、男女共同参画社会基本法が制定された。そして、2000年(平成12年)、男女共同参画基本計画が閣議決定される。「ジェンダーフリー」と性教育を攻撃する最近の動きについてふれたい。高橋和枝氏(新婦人副会長)の『女性と運動』2004年6月号の「バックラッシュを許さず、男女平等、男女共同参画めざす運動さらに」に詳しいが、一つは、読売新聞が社説などでバックラッシュに参加している展だ。そしてもう一つは、「戦争する国」づくり、改憲への動きと一体であることで、この担い手たちの危険な正体を見る必要がある。
 男女共同参画社会基本法と基本計画については、基本法と基本計画の背景を見ておく必要がある。男女共同参画政策の重大な問題点は、一つは、差別撤廃への遅れで、この差別撤廃の遅れを指摘するCEDAW の最終コメントも参考にして欲しい。二つ目は、財界戦略が持ち込まれている点で、これは自立・平等に逆行する道である。財界は「男女平等」の名称を嫌って、「社会経済情勢の変化に適応できる」の文言を挿入した。この狙いを見抜きたい。さらに「個人単位化」「性に中立的な制度」という落とし穴についても注意したい。そして「平和」について何も言及はない。こうした動きは、バックフラッシュ勢力を勢いづかせるものである。

 
司会・戦前から含めて、戦後の動きを含めて、学習会でも問題になってきたが、教育基本法がつくられたしりからそれを変えようとする動きがわかって、家庭科についても全く同じだなと思った。がんばってこられた安田先生の報告に熱い思いがした。ここで、言葉の質問について有れば受けたい。なければ臼井先生に話していただく。臼井先生の方は、数学で、ずっと府立高校の方でがんばってこられた。

 
臼井照代さん(元府立高校校長)・・・・臼井です。戦争の始まった1941年に高等女学校を卒業した。戦前の教育をまともにうけてきて、それを引きずってきた人間で、戦前の教育を素朴に信じてきた人間である。
 戦後、新しい教育ということで古本屋をまわって、そこで初めて男女で教科書が違うということを知った。そこでやられていた教育がいかに違っていたかと言うことを知った。国語も社会も数学も、いかに違うかと言うことを知って愕然とした。これだけ違うことをやられていれば、差を埋めることはできない。取り返しのつかないことと、まだ腹が立っている。同封した資料は、洛北高校の生徒会新聞で、当時の生徒たちの思いを知ってほしい。当時生徒たちは新聞紙上に何度も男女共学を書いている。高校三原則の中で、これを取り上げ、高校三原則の中でないと男女共学も生かせないと言っている。

 R高校新聞というのがあって、これは高校生の新聞部が発行してきたものだが、1956年10月10日の論説で、「共学制に弊害あるか」と題して、「共学制が実施されたのは、昭和21年3月、二十七名の団員からなる米国教育使節団が日本の教育事情を調査し、封建的教育から脱却させるために、日本政府に勧告し、政府がこれを実施したのである。つまり日本内部から起こったものでなく、いわば強制的に実施されたもので、当時は国情に合っているか否かも検討する暇なく、「物はためし」といわぬばかりに実行したものである。」そして「共学是非論は時期尚早」として、「もっと長い年月をかける必要があるのではないか。」と結んでいる。その左側に書いているのは、H君というのが書いていて、それは、「明治時代になって、政府が近代国家建設には女子の、教育への積極的な参加を必要とし、留学生を米国に派遣した・・・・。いずれ男女共学の下で学んだ人々が、世論の中心となれば消える問題であろうが、私たちは、そのときまで、石にかじりついてでも、男女共学を守るべきではなかろうか。何故なら、再び別学になれば、男尊女卑の時代に逆戻りしなければならないから。」と論じている。当時の高校生の考えがよく分かる。参考になるかと思い紹介させてもらった。

 昨年出された中教審答申の中で、削除するといっているのはこの「男女共学」の条項だけである。その理由としているのは、「当然のことになっていて、なくなってもいいんじゃないか。」としている。しかし、そう言いながら、一方で格差がなくなっていないことも認めている。それでは、何故これを削除しようとしているのか。戦前の女性が虐げられた者から見れば、絶対に守られなければならない条項だと思う。資料にある「婦民新聞」も、よくできたものだと思っているので、時間があれば見てほしい。

 
司会;婦民新聞の3頁に臼井先生の記事もでているので参考にしてほしい。


質疑・交流


 
司会:今日の学習会で男性が少なければどうしようかという思いだった。民主的といわれる人の中でも、それぞれの家庭の中での(古い)考え方も残っていると言われていたが、参加者が多かったので安心した。

 
○戦前の教科書の「男女別」というのは、全教科なのか。

 
○教科書に「女子用」と書いてあった。数学も代数などは女学校は5年生ででてくるのに、中学校では2年生にでてくるのに驚いた。

 
○京都では「高校三原則、男女共学」が根付いたが、東北・関東ではすぐに崩されてしまった。男女共学をやめるように主張したのは、なんと女学校のOBだった。

 
○指導要領が変えられて家庭科が大変少なくなって、2単位になってしまって、今までやってきたことがさびれていく傾向がある。文部省検定の教科書もはるかに悪い。「虐げられた教科」と言われ、一人で全学年を持っている。どのように今後の展望を持っていけば良いのだろうか。

 
○私の経験から言うと「家庭科を勉強して良かったな」というのがわかってもらえればと思う。私のいた高校定時制で、たとえば生徒に給料明細書を持ってこさせて、税金や天引きの内容を学習していった。男の子も「(家庭科を)なんで今まで男子に教えてくれなかったのか」というので、制度の問題も説明した。「好きな者だけ勉強すれば」「女子だけ勉強すれば」というがそれではだめで「何で家庭科を勉強するのか」ということをしっかりわかってほしい。文部省はそれがいやで「家庭科ではなく、裁縫と料理だけやっていれば」と思っている。

 
○小学校2年生から国民学校だった。1年から高校1年まで下級生なしの学年だった。新制高校では中等学校の教科書で教えてもらったが、戦後かなり教育課程が変わったので、家庭科がなかったような記憶がある。中学校と高等学校での違いはどのようなものか。私が教員をしていた時に家庭科教育を学んだが、自分自身、家庭科というものについてどういう風に理解したら良いのかがわかっていない。家政科でもなく、裁縫でもなく・・・・、まるで「家庭科」という象の体のようなものを、なでて理解しているようなものである。家庭科は、子どもが社会に出ている時の生活に基本になると思うが、中学・高校での男女ともに学ぶ家庭科についての基本を、わかるように教えてもらいたい。

 
○中学校の家庭科について言えば、昭和25〜6年ぐらいまでは、男子に対して何を教えるかというのは全くなかった。男女共に教えるというのもなかった。しばらくして技術家庭科に代わり、それを教えられる先生がいなくて、数年は曖昧に過ごしていた。そして、男女別学に学ぶというようになってきた。しかし、男女ともに学ぶ必要があるのではないか、性教育も男女ともに教えていく必要があるということで、指導的な先生のいる所は「家庭科があっておもしろい。」ということになった。一方進学校では「家庭科の時間を受験に回す」ということで簡単に家庭科が切られてしまっているという経過もある。高校でも「家庭科は、どんなことを教えているのか」を知ってもらうよう努力したが、教員の中には「他教科は知らなくて良い」という人もいて、なかなかうまく進まなかった。4月には教科の時間の取り合いになって、他の教科を攻撃することになり、「文部省が時間枠を決めてくれればいいわ」ということになってしまっていった。

 しかし、子どもたちから「もっとわかるように教えてくれ」という意見が出て、その中で「教科論」が職場で交わされるようになってきて、家庭科についての職場理解も進んできた。教科の枠を超えてどう子どもを育てていくのかが議論されないと、教科の壁を破ることにはならない。

 
○自分の経験から言えば、戦後「運針」などを女子から教えてもらって、家庭科などもきわめて新鮮に映った記憶がある。はじめて男女一緒に勉強した。今で考えれば労働教育につながるような考えを、担当の先生がもっておられたのではないか。

 
○戦後すぐ中学校の現場で、私は、「家庭科を教えるのはいやだから、数学を教えたい。」と言えば、校長は「どうぞどうぞ」ということで、数学を教えていた。それまでの小学校の先生が中学校にきていて教えたので、「教科」という意識はなかった。

 
○今は、小学校の家庭科で男女共学で調理実習や裁縫をやっている。福岡で10年教師をしていたが、そのときは家庭科は女子だけで、「なぜか?」と思っていた。京都は、男女共同教育が進んでいて、すばらしいと感動した。今また女子に対する攻撃が強められ、教師生活30数年の中で様変わりしてきて、反動的になってきている。年金問題も議論されているが、弱い者への攻撃は、同時に女子に対しての攻撃でもあり、私たちが請け負って行かなければならないようにされている。

 
○紹介したいが、ノルウェーでは6年間かかって、「男女平等教育」を進めている。パンフレットの実物をもってきたらよかったが・・・・。

 
○99年の男女共同参画法で「男女共同参画」と言い、「男女平等」と言わなかったが、何故なのか?

 
○「バックラッシュをゆるさず」の13頁上にそれがでているので参照してほしい。「2.持ち込まれた財界戦略−自立・平等に逆行する道」の中に「男女平等の名称を避けたのは、「結果の平等を嫌う産業界への配慮から」(鹿嶋敬『男女共同参画の時代』)といわれています。」とある。英訳ではGender Equality(男女平等)である。外国へは「男女平等」と言うが、国内には「男女共同」という。これが財界戦略に従ったものである。企業の男女差別の実態を告発されて、男女平等を求められてはたまらないというのが本音であるのではないか。

 
○「男女平等」を求める運動が、大きく高まった時期があり、そういう流れの中で「男女平等」が使われたら、財界が困るというので、そういう形になったのではないか。これが地方で条例が制定される段階になって、すごいバックラッシュがあって右翼や国民会議などの攻撃がすごかった。「男女特性論」というので「男女はそれぞれ特性があって、それでやれ。」という形で攻撃がなされてきた。

 
○男女共学について、学校教育の中の変遷がよくわかった。社会の中でマスコミを通じて、女の子に対して、「ぶりっこ」とか「かわいこちゃん」と呼ばれた頃から、女の子がそちらに流されていく中で、自分らしさを失っていくのを感じている。教科書裁判の中でも書かれていたが、男女平等の流れを押しつぶすような流れを脅威に感じている。ある人の書いていたもので、「ブレスレットでも女の子は、フリルのついた大人と同じ格好をさせている。」というのが書いてあった。教科書は男女同じ扱いでも、テレビやマスコミで「男女は違うんだ」ということが流されているのが怖い。

 
○大学で学生相談をしているが、性同一性障害の子どもにとっては、逆にそれが壁になっていく。それをどう乗り越えていくのかという課題もある。

 
○東京の都立養護学校の性教育が、都教委の攻撃を受けているが、性教育は男と女の二つだけではない、いろいろあるんだということをやっているが、それをしている学校も少なくて、攻撃を受けている。

 
○東京は「男女混合名簿」への攻撃もあって、東京ではバックラッシュと言っても、むちゃくちゃなやり方である。

 
○会合などで名簿に当たり前のように書いているが、私たち自身もふっと自分たちの場合から、性別を書かせない、学年を書かせないで年齢を書いてもらうなど、身近なところから広げていけることがあるのではないかと思った。

 
○男女とも自立して行くという上で、私たち自身が教育基本法のこの条項を大切にしていくということが必要なのではないか。


 
まとめ


 
安田雅子さん(京都教育センター)・・・・高橋和枝さんの「バックラッシュをゆるさず、男女平等、男女共同参画めざす運動さらに」は、重要なものだが、本当は全部読み上げれば良いが、時間もないので一部紹介したい。8頁には「ジェンダーフリー」と性教育を攻撃する最近の動きとねらいについて指摘している。この中には読売新聞がバックラッシュに「堂々」と参加してきたことも指摘している。また、「バックラッシュの攻撃の特徴」や「わかりにくい男女共同参画法」についても説明している。基本計画には、リプロダクティブ・ヘルス」など、言葉がわかりにくいと言うこともあって、民主的な側もついていけていない面があり、今後学習を深めようと進めている。

 また、「女性差別撤廃の遅れ」がある。国連は12項目の勧告をして日本の遅れを指摘している。(資料の)12頁中段から下段にかけて書いているが、これらが日本の国の政策の中には入っていない。

 今、日本の中で、ものすごいバックラッシュが生まれている。京都ではあまり感じないが、東京ではひどい状態がある。こうしたものに強い懸念を抱いている。

 
司会:DVや、児童虐待の問題、佐世保の小学校6年生の殺傷事件にふれて井上副大臣の女性差別問題発言など、まだまだ日本の社会の中に位置付いていないことを思う。また年金問題も、また女性にしわよせがくる。

 
臼井照代さん(元府立高校校長)・・・・昨年の教育基本法「改正」に関する中教審答申のなかで、「男女共同参画」の項目を、少し読んで紹介したい。・・・・答申の前段では「課題はまだまだある」と言いながら、後段では「性別による男女平等の機会も得られて・・・・」と言い、この条項の削除を主張している。

 
司会・今日は、充実した報告と議論だった。次回もぜひみなさんのご参加をいただきたい。

 
事務局:教育基本法連続学習会には、毎回、資料を準備させてもらっている。感想なども寄せてもらえるとありがたい。ぜひ一言でもお願いしたい。今日の参加30名、新しい方4名だった。


 
 
 
 
感想


 
●二回目にも参加しました。私は家庭科の教員免許を持っていますが、教えたことはありません。私が大学で学んだときは、家庭科は技能と共に、家庭、社会の中で自らがどう生きていくかを学ぶ教科であると理解していました。今日、戦中・戦後んも家庭科の取り扱われ方を改めて学び、かつての家庭科はひどい扱いを受けていたのだなあ・・と思いました。また、高校家庭一般男女共学4単位が、1994年に制定されるまで、終戦からなぜ50年(半世紀)もかかるのか?とても疑問に感じました。しかしそれは、日本の社会の男女平等を反映した結果であり、社会の男女平等が本当の意味で進んでいかなければいけないと強く思いました。


 
●あらためて男女共学をめぐる問題に触れ、教育基本法の大切さを感じました。今後さらに学習を深めたい。


                 
●男女性別を意識すること(自覚すること)と、それをどのように意識するか(例えば、特性論etc)ということとは、区別されねばならないと思う。意見の中で出た指摘は、とても重要な論点を含んでいる。「身近にできることとして、無自覚的に性別を記入させる習慣を、止めることから始めたらよい。」これは、議論したいテーマである。今日の「男女平等」の考え方を発展させる上で、どうしても必要な検討だと思う。


 
●戦前・戦後を通じての事実に基づくお話と、お二人の講師の先生が、この問題を自覚されてからの学習と行動の歴史をかいま見ることができ、とても興味深く感動しました。しかし振り返ってみると、私自身はあまり自覚的に行動していなかったなあと反省。まとめのなかで言われた「男女共同参画」などのむずかしい言葉に惑わされ、敬遠していたまさにその一人です。ありがとうございました。


 
 
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