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●●この記録は、京都教育センター事務局の責任でまとめたものです。●●
  教育基本法・連続(月例)学習会
           2004へのおさそい

○第五回(5月8日)は第四条、義務教育である。
 第四条・第二項に「国又は・・・・・は、授業料は、これを徴収しない。」とある。
 これだけをみれば、「授業料は徴収しない」となるが、教育基本法は憲法と共に存在して いる。このことは、前文にも明記されている。前文最後の項に、「・・・・ここに、日本 国憲法の精神に則り、・・・・この法律を制定する。」と。そこで、直接的に関係する条文 として、憲法・第二十六条がある。この憲法・第二十六条の一文に、「・・・・義務教育 は、これを無償とする。」と締めくくられている。
○無償とは、改めて解釈する必要はないと思うのだが・・・・、義務教育では、経済的な負 担をさせないことである。また、わざわざ教育基本法・第三条でも「・・・・経済的地位 ・・・・によって教育上差別されない。」とまで書かれている。
○ところが、今日の極めて競争主義的な教育では、いかがなものか・・・・?

   第四条(義務教育)
 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務
 を負う。
 2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育につ
 いては、授業料は、これを徴収しない。



教育基本法連続(月例)第五回学習会記録     

 
日時・2004年5月8日(土)午前10時〜12時 
場所・京都教育センター室             
司会:中須賀ツギ子(京都教育センター)      
記録:浅井定雄(京都教育センター)          
話題提供:春日井 敏之(立命館大学)      
 
司会:五月晴れのさわやかな日、外に出て活動したいが、そうも言っていられない情勢。しっかり勉強して対応したい。イラクの人質事件で心を痛めておられる方も多いと思う。教育基本法学習会は今回で5回目になるが、進めていきたい。今回は、若い春日井先生に提案をいただく。また現場からも出席されているので、日々子どもたちと関わってい現状も出していただき、交流を深めていきたい。

話題提供

春日井:春日井です。立命館大学にいますが、長年中学校の現場で子どもたちと関わっていました。今日は、いっしょに勉強をしていきたい。淵田先生につけてもらったテーマ「「義務教育」に関わって−−教育基本法の「改正」と心の教育のゆくえ」は大きいテーマなので十分な話はできないと思う。現場との交流で深めたい。
 教育基本法4条をもとに、教育情勢や教育改革の中味をみていきたい。また「今なぜ教育基本法改正」なのか、子どもの状況も含めて報告したい。レジメは4時間ぐらいのものなので、はしょりながら報告したい。
 
(教育基本法第4条「義務教育」に関わって)
 
 (レジメ)1枚目、教育基本法第4条は義務教育の規定。「@国民は、その保護する子女に、九年間の普通教育を受けさせる義務を負う。A国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料はこれを徴収しない。」このように、憲法第26条を受けて「授業料は徴収しない」というのがある。憲法第26条には、「その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する。義務教育はこれを無償とする。」とあり、これを受けての教育基本法第4条は、憲法第26条と一体となっている。
 
(義務教育の意味の変遷)
 
「義務」というが、子どもに対して「義務」をさだめたものではない。戦前は臣民の三大義務として「兵役」「納税」と共に「就学義務」とされ、子どもに対してではなく、国家に対する保護者の義務として規定されていた。これに対して、戦後は「臣民の義務」から「国民の権利」へとパラダイム転換された。「国民の権利」と言うことは、国家が国民に対しての義務である。国民が教育を受ける権利を実現するための条件整備を行う義務が国家にあるという事だ。根本的に視点が変わった。国の義務は「条件整備」、これは「機会均等」にもつながる。しかし、実際に行われているのは義務教育教科書費の無償、経済的理由による就学援助、盲・聾・養護学校就学による必要経費の支給、この3つだけである。戦後、国民の3大義務とされたのは、勤労、納税、教育を受ける義務だが、勤労は義務でもあり権利でもある。また義務教育は、保護者の子どもに対する義務になっている。戦前と比べて「義務」の中味が変わってきている。
 
(国民の教育を受ける権利「憲法26条」)
 
 義務教育の無償化は15歳までとされているが、しかし権利としての教育はそれだけではなく生涯にわたるものである。「とりあえず15歳までは最小限度」であって、生涯にわたる教育保障を考えて行く必要がある。子どもの教育を受ける権利も、国の権利保障義務も、子どもの年齢にかかわらず継続する。
 普通教育をどこで受けるか。たとえば、学校に来ていない不登校の子どもたちの教育保障をどう考えるのか、この子どもたちは二重・三重に著しく不利益を受けている。子どもの教育を受ける権利が、その事情に応じて保障されていないことを見る必要がある。学校以外の、家庭・社会で受ける教育の権利についても考えていく必要がある。イギリスでは、1994年教育法第36条で「子どもは学校、あるいはその他の場で、フルタイムの教育を受ける権利を有する」(Home-Based Education)とされている。日本でも、そのあたりを条件整備と制度的課題の関連で、検討する必要がある。
 
(戦後の学習指導要領の変遷)
 
 戦後の学習指導要領の変遷はレジメに示しているが、これを見ると、1958年頃から流れが変わっていっている。国家主義教育の懸念が生まれている。また1977年の改訂では「ゆとりの教育」と言われるものが、ここから現在の流れが始まっている。三浦シモンが「ゆとりの教育と言っていたが、エリート養成が本音」と最近語っている。1977年がひとつのターニングポイントだった。当時、「ゆとりの時間」は「ゆうとおりの時間だ」と現場では話していた。1989年は、多元的能力主義、態度評価が入ってくる。「24時間見張られているようでしんどい」という子どもの声があった。1998年から「総合的な学習の時間」が入ってきたが、このあたりから理数系から「学力の低下」が指摘され、文科省が揺れた。現在は、「学力重視」路線と言われているが、しかし公立の中高一貫校の創設や学習指導要領を超えた教科書を認めるなど、「上位層をどう伸ばすか」ということに重点がシフトしてきた。全体の子どもをどう統括するかというのがもう一方にあるが、階層化・差別化を前提として、行われている。
 
(なぜ今教育基本法の「改正」なのか)
 
 なぜ今教育基本法の「改正」か。今まで改正論議が正面浮上しなかった理由は、一つは戦後の教育や民主主義の枠組みを壊すことへの国民の反対運動への恐れと、もう一つは保守政治の中で改正をしなくても、一定教育行政を進めてこられたという点にある。
 しかし、今回改正論議が焦点化してきた理由は、一つは政府・文科省の進める教育改革にとって、教育基本法が大きな障害になってきたという点と、もう一つは改正に手を付けても国民の抵抗を押し切ることができるという政治判断にある。そして、この改正議論が焦点化してきた背景には、外在的な要因が中心にあると言える。それは、1番目に戦後憲法と民主主義の中で培ってきた小国的政治システムを変えて、世界のグローバル秩序に日本も参画していくという意味での「軍事大国化、大国主義的な改革」である。2番目に、グローバリゼーションの中で日本企業の競争力が減退してきた。この不況をグローバル企業の競争力の強化で突破しようとする「新自由主義改革」である。3番目に「大量の水準的労働力」はもはや必要がない、「先端的な科学技術能力の育成」と「新しい管理的なエリートの養成」が重要だと考えている。現在3%のエリートしか必要としていない。それを中高一貫校とかで予算を集中して行おうとしている。
 一方矛盾もでている。90年代教育改革には2つの誤算があった。一つは、子どもたちの学力が低下し、日本の競争の競争体制がつくりあげた「日本型高学力」体制が崩れてきた点だ。二つ目には、公教育のスリム化と格差化を進める中で、学級崩壊、ひきこもり、不登校の増加、少年犯罪の増加、子どもたちの公共精神の減退など、新しい教育荒廃といいわれる現象が深刻化してきた。低学力や学級崩壊の問題、これは「放っておかれた子どもたちの問題」として当然出てくる問題であったと言える。これに対して、保守層から文部省主導の教育改革への批判が出てくる。これは「ゆとりの教育」が学力低下を生んだという批判であり、もう一つは、教育基本法に基づく個人主義的な教育と旧文部省の教育政策を批判したものだ。
 そして、2000年代に入って、教育国民会議が登場し二つの潮流が現れてくる。一つは、主流としての主流(新自由主義)と旧文部省の潮流で、先端的科学技術力の向上やエリート養成がうまくいっていなかったり、新たな教育荒廃が起こるのは、教育改革の結果ではなく改革が遅れているからであるとして、重点的な公的資金の投入と柔軟な学校システムを作るべきであると主張する。財政間頼も絡みながら、公教育のスリム化で一部のエリートを作るという方向である。二つ目は、非主流的な、新保守主義の流れで、教育を巡る深刻な事態は、旧文部省の「ゆとりの教育」を柱とした教育改革では解決できずに悪化してきたとし、落ちこぼれてきた子どもへの「規範教育」「規律教育」などによって、教育を権威主義的に再建する必要がある。つまり、「新しい教育荒廃」に対して、国家主義で押さえるという方向である。そして、双方から支持された教育基本法の改正が答申されることになる。これは「教育振興基本計画」(予算化を伴う)とセットで登場した。2001年に文部科学省が作成した「21世紀教育新生プラン−レインボープラン−7つの重点戦略」に反映されていった。また小泉政権のもとで、政治課題として取り上げられ、文部科学省は、2001年に中央教育審議会に諮問し、2003年に答申として具体化された。そして、教育基本法「改正」法案検討へと進んでいる。
 こうした二つの潮流と教育基本法「改正」論議登場の理由は、主流派の理由として一つは戦後教育の平等な教育体制を根本的に否定して、子どもたちに格差的な教育をやっていくための基本的な理念を体系的に表明していくテコが必要であるとし、格差的な教育とエリート養成のための新しい教育の価値付けをねらうものであった。二つ目には、基本的な理念の変更に伴う、制度的・財政的な保証を、教育基本法改正の中で実現していくという実利的な要求からである。こうして、基本法改正と教育振興基本計画の策定がセットで提案されている。非主流派の理由としては、社会の解体、子どもたちの荒廃、新しい教育荒廃といった問題を重視し、「規律教育」や「奉仕活動」などの締め付けと権威主義的な教育の再建によって解決すしようとし、具体的には「伝統の尊重」「道徳の重視」「家庭の尊重」「国を愛する心」などを改正の中に盛り込んできている。こうした流れが合流して、憲法「改正」につながる教育基本法「改正」が狙われ、憲法「改正」と教育基本法「改正」をセットで考える。まず教育基本法を改正して、憲法改正になだれ込もうとする戦略がある。こうして、国民の意識全体をを大国主義的に変えていく必要がある(国旗国歌法等)とされ、軍事大国化の第一段階としての新ガイドラインの制定(自衛隊の海外派遣)が行われてきた。
 
(心のノートと連動する教育基本法・憲法「改正」の動向)
 
 心のノートは、どのような目的をもって登場してきたのか。特に1980年代以降の教育改革路線の中で捉えていく必要がある。それは、イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権の影響を受けた中曽根政権下での「臨時教育審議会答申」(1984年〜87年)、小渕政権下での「21世紀日本の構想」懇談会報告(2000年)、森政権下での「教育改革国民会義」報告(2000年)、小泉政権下での文部科学省「21世紀教育新生プラン」(2001年)の流れの中で、より具体化されてきた。
 鮮明になってきた教育改革路線の特徴を初めに述べておきたい。第一に、教育の平等主義(教育を受ける権利、機会均等)から、競争原理に貫かれた能力主義、効率主義への転換。第二に、教育市場の自由化、規制緩和の推進と国の財政支出の削減、重点化への転換。「自由化・規制緩和」と「自己選択・自己責任」。第三に、平和的な国家、社会の形成者としての国民の育成から道徳教育強化による愛国心育成への転換。第四に、2003年には教育基本法「改正」が中央教育審議会から答申され、国会審議の段階に直面していること。第五に、こうした教育改革路線が、首相の直属あるいは私的諮問機関による報告を受ける形で文部科学省(旧文部省)をリードし、首相主導で短期間に推進されてきたこと。第六に、最終的には平和主義から、日米軍事同盟の下で有効に機能ずる自衝隊を認知する9条改正を含む憲法「改正」とこれを是認する国民の育成をはかっていくこと。第七に、これらの一連の流れは、新自由主義と国家主義の動きの中で生まれ、教育基本法・憲法「改正」に向けて合流している点では共通していること。などある。
 このような流れの中で、心のノートは登場し、2002年4月に文部科学省は全国の小中学校に、1200万部を配布した。教科書でも副読本でもなく、補助教材として位置付けることで、執筆者を本文上で明らかにすることもなく、また教科書検定を受けることもなく、実質的な道徳の国定教科書が国家から「プレゼント」されたのである。
 
(京都における「心の教育」推進の動向と対応)
 「京の取り組み、全国の手本に 元京都市指導主事作成で中心的役割 本年度の小中生用道徳教材 子ども自身の考えを重視」(京都新聞2002年4月13日付)。これは、心のノートを紹介した新聞の見出しである。心のノート作成協力者会義の座長は河合隼雄氏であり、作成実務担当の文部科学省教科調査官は、京都市教育委員会指導主事から転出した柴原弘志氏である。河合氏は2002年6月には、京都市立西陣中央小学校6年生に対して心のノートを使った授業を自ら行い活用をアピールした。
 心のノート作成に先駆け、京都市では河合氏を座長に2001年8月に「京都市道徳教育振興市民会議」が発足している。心のノートが配布された2002年6月〜7月にかけては、この「市民会議」によって京都市立の小・中・高等学校の児童生徒と保護者に対して「道徳教育一万人市民アンケート」が実施され、報告書が出されている。
 また、2002年4月に福岡市の小学校69校で、6年生の社会科で愛国心を評価する項目が入ったことが大きな問題となったが、2003年には京都府下の小学校でも同様の事態が起きている。「知識・理解」「技能・表現」「思考・判断」を含めた4つの観点別評価基準の中の「関心・意欲・態度」の項目で「わが国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を持つとともに、平和を願う世界の中や日本人としての自覚を持とうとする」という内容で、ABC評価をするのである。心情を「関心・意欲・態度」としてABC評価することの問題性と合わせて、道徳教育の徳目を教科学習で評価する教科学習の道徳化として、重大な問題を含んでいる。
 
(「心のノート」を読んで)
 
 「心のノート 中学校」(文部科学省,2002)を開いてみる。「元気ですかあなたの心とからだ」(14〜15頁)という大きな活字が目に飛び込んできた。私にとってインパクトの大きかった「元気」という二文字は、このノートの中で最も大きな活字であった。子どもたちの写真もなぜか笑顔が多い。私の心は思わず叫んだ。「いつも元気でなかったらあかんのか」と。
 23の道徳の徳目に沿ってつくられている。心のノートでなく「道徳の教科書」である。それが、「心のノート」とオブラートに包んでいる。大きな活字で「元気ですか、あなたの心とからだ」と書いてある。アントニオ猪木を思い出す。元気でなければ悪いのか。
 内容は三つあり、一つは「あいさつをしよう」などのソーシャルスキル。二つ目は「考えてみよう、自分を振り返ってみよう。」という内面化を強制する。「あなたの心はしおれている。そこをみつめなさい。」と強制している。三つ目は「道徳の徳目、たとえば愛国心などの特定の徳目」を強制する。愛国心などは、「考えてみよう」ではない。
 
(「心のノート」これまでの議論の中で)
 
 時間がないので、レジメ10の「これまでの論議の中で」を見てほしい。次のような議論が出されてきている。第一は、文部科学省は、道徳的実践力の強調から、感情規制を視点とした心のノートへとなってきている。ふさわしい行動の要求をし、しかも「心が伴なっていないと認めない」という形だ。第二に、上位層をめざす効率的競争が激化する中で、子どもの心は疲れを増しているし、他者との比較の中で評価され、その中で自己評価をしていくということになってしまっている。また第三に、子どもたちの心の疲れの根本に迫ろうとはしないで、疲れた顔にさらに厚化粧をしてごまかそうとしているようなものである。第四に、政府・文部科学省の狙いには、社会を感情規制によってコントロールしようとする狙いがあり、「日本人なら〜すべき、母親なら〜すべき」としている。これは自己責任論と軌を一にする問題でもある。第五に、望ましいプラス面を評価し、マイナス面を否定していく心のノートになっており、登場人物は「笑顔」を振りまいている。これは、生身の人間の日常の姿ではない。第六に、「こんな自分でもいい」とは思えないように、見ていてしんどくなる心のノートになっている。人間の否定的な側面も否定せずに向き合っていくことを援助していくべきであり、シャドーを自我の中に取り込んでいくことを援助することがカウンセリングである。第七に、心と身体のつながりの中で人間を捉えていく視点が弱い。第八に、日常生活の中で起きている具体的な問題が取り上げられていない。不登校、いじめ、学級でのさまざまなトラブルなどである。第九に、きわめて政治的な狙いがある。つまり「愛国心」の強調などで、自衛隊派遣、アメリカとの軍事行動、戦争を肯定する国づくりへ国民の心を動員しようとしている。第十に、「良い子のカガミ」としての心のノートを9年間の積み重ねの中で、子どもたちに内面化していく怖さがある。第十一に、色彩的にも工夫がこらされているため、小学校低学年には抵抗なく入っていく可能性もある。第十二に、私達には、心のノートを相対化していく取り組みが求められている。「心のノートで遊ぶ心」を。
 これは議論してほしい点だが、学力「百マス計算」なども、学力保障としては重要だが、同時に「その他大勢の子ども」を管理していくことに使われてしまうという危険性がないだろうか。
 
(危機的年齢としての思春期にいる子どもを対象として)
 
 最後に、レジメの最後、「危機的年齢としての思春期にいる子どもを対象として」についてふれたい。危機的年齢としての思春期の発達課題を考える場合、自立の入り口にまでたどり着いていない子どもも多い。無関心、放置、期待しない、虐待・・・・の結果、大学でも「子どもがしんどいと言っているがどうか」と母親から電話がかかってくる。親子が気遣いをし合って、本当にぶつかっていない。
 また、友人関係の危機も感じる。「いじめが減っている」、と言うがいじめも起きないような希薄な人間関係が問題である。学びの問題にふれて言うと、僕たちの時代は「努力が報われる」「がんばったら何とかなる」という時代に生きてきた。会社も終身雇用である程度守った。しかし、今の青年たちは誰も守ってくれない。今の青年たちは禁欲的なことをしていても、未来が見えない。学びのための土台となる家庭生活が不安定、しかも、親も自分のことで精一杯という状況だ。
 最近の大学生は、出席率が高い。理由を聞いているが、「休む勇気がない」「授業以外に楽しみがない」と言う。カウンセリングルームを尋ねる学生も増加している。留年25%、就職も3割程度。ライフコースを書かせると、思春期では低下、大学生入学時は上がるが、その後低下、就職前は下がる。そして40代、60代と谷がある。多くの大学生が「谷だ」と感じているところに、次世代を育てる上での危機がある。だけども居場所を求めている、自分探しと、ささやかな役立ち感を求めていることも強く感じることである。若者の持っているエネルギーに失望は感じていないが、しかしそれを生かす社会の仕組みが不十分であると思っている。


質疑・交流


 
 
司会:提案に関わって質問が有れば出してほしい。あとは討議・交流を深めたい。
 
●教育基本法の第4条について、「子女」という言葉は嫌いです。日本では義務教育を9年間と限定しているが、諸外国ではどうなのか。(この限定は)高校全入と関わって問題を感じる。普通教育とは何か、学校教育だけを指すのか。「義務を負う」というが、まっとうにできなかった時どうするのか。義務はその年齢だけなのか。保護の問題は、年齢とも関わってくる。普通教育を受けさせるは、年齢だけではなく、つけられるべき学力は、9年分の学力を身につけさせるのは保護する者の責任であり、それはまた国の責任ではないのか。
 
●心のノート、話題になった。気になったのは「意見・考えが違う時にどうやるの」という点で、つまり「けんかの仕方」が全く取り扱われていない。ノートでは、どの程度読みとれるのか。子ども同士がけんかもできる学校が必要と思うのだが。個性だけが強調されて、人とのつながり方が全く見えてこない。
 
●以前に心のノートの話を聞いたが、現場では一方的に心のノートの中味を押しつけているのか、それとも、心のノートを材料に教育がされているのか、知りたいところだ。
 
●「子女」という言葉については、歴史的な扱いがある。「9年間」の問題は、二つの理解の仕方がある。ひとつは年齢主義、ひとつは課程主義。やはり課程主義を大事にすべきだと思う。また「年間」も一律に切るべきではない。普通教育は、制度的に学校を考えてはいるが、しかし学校教育の場だけには限定できるものではないとして、フリースクール等ふくらませて行く必要があるのではないか。「国民に権利がある」というのは当然「国家に義務がある」というのが近代憲法の解釈である。
 
●心のノートは「トラブルを起こさないようにしなさい」という発想である。スウェーデンの教科書では「いじめが起きた時にどうするか、討論しよう」という場面があり、さまざまに考えさせようとしているが、心のノートでは、意見の対立をどう克服するかとかのトラブルの対処はない。京都市内の小学校では、研究会などで、かなりの締め付けが生まれている。府下でも「どう使っているか」点検が入り出している。「補助教材」としているが、文部省が費用を使って、検定もなく使っている、その使われ方の上でも大きな瑕疵(かし)がある。
 
●今、小学校2年生を担任している。心のノートは、実際にはほとんど使っていないが、名前だけでなく、記入していく所がある。はじめは「道徳の時間に使わないように」とのことだったが、あとで「道徳の時間に使ってください」ということになった。これ(心のノートの冊子)は、残しておかないと2年生でも使わなければならないので、一年生の時は教師が保管していた。そのまま持ち上がっている。自分が注意しているのは、「子どもに押しつけにならないように」ということで、子どもが「本音でいやなことを書けない」と言うことだ。「指導したか」というチェックが入るときは、10分ほど使って「指導した」としている。今、教職員評価の問題で、現場がたいへん窮屈になっている。また学力をつけるために授業以外に課外で放課後、各学年とも取り組むように言われている。この取り組みには、「できる子にもその子に見合った課題を」とステップアップタイムとして、放課後、個に応じた学力向上として取り組みを強制されて、「できる子がさらに学力を上げるために」ということになっていて、それを受けて取り組む教師も増えてきている。「できない子の学力向上」の取り組みは、「できる子を放置している」と攻撃されている。すべての子どもを「個」に応じて(課外で)指導して、いくことを強制されている。
 
●心のノートが現場でどうか。道徳主任から「道徳の時間に使ってください」と強く言われている。担任からの週の計画に「心のノート」と書かれていて、保護者がびっくりしている。明らかに道徳で指導せよというのが降りてきている。教育委員会主催のフォーラムがあった。いい内容だったが、質問をして、「よい話だったが、現場では合わない。」というと回答された先生は、「(心のノートの)取り扱い方について配慮がいる。」との返事だった。
 
●最初の方から提起された問題は、大事な問題だ。「9年間」問題は、制定過程からみて重要な意義がある。戦前は6年間、戦前の反省に立って「国民教養を十分身につける」ということで9年間に伸ばした。その意義をしっかりと今日的に見つめていく必要がある。その思いは「しっかりと国民教養を身につける」ということである。
 
●学生だが、先日も大学の授業で心のノートの授業を受けた。例えば、市場などで買い物客が殺到したとき、ある国ではあちこちから手が多く出るが、日本人は並んで買う。このように、知らないうちに「規範」というものが、学校で身につけられているなと思った。
 
●教師をしていたが、気をつけていても、やはり子どもに「規制」をしていたのではないかと思っている。
 
●レジメの3頁に「文部省の主流新自由主義・非主流国家主義」の中で、「自己責任・・・言葉は新自由主義」、しかし中味は「国家にたてつくな」という国家主義。「主流」「非主流」というのは、どんな実態を持っていくのか。
 
●東京の人たちは、文部省との関係を持ちながらやっているので、人物評価をしているが、その中で主流・非主流があると言われているが、大きい流れの中では官僚は政治の動き方の中で身の振り方を考えていくので、傾きがあるという程度ではないか。
 
●経済の中でも企業ごとにグループがあって、国家主義・新自由主義というのがあるが、官僚の中ではどうなのか。
 
●官僚は、政治政策の中で身を処していくのだから、時の政府の舵取りの中で取り組んでいくのだが、靖国にも行くし自衛隊も出す、同時に規制緩和もどんどんやる。今は、多国籍企業の求める政策が中心になっている。
 
●「生きる力と学力」について、芥川賞をとった2人の若者があるが、そのうちの一人の父の手記を読んだが、不登校で学校に行かずフリーターをしていて、しかし、本の世界で娘は居場所を与えられた。本が子どもを救ったと言う。これは、今までには考えもしなかったことだ。私の家の息子も本に救われたというのは同じである。中学校の頃、学校に行かずふとんにもぐりこんで不登校になった。アトピーがひどくなった。息子もどこにも居場所がなかった。しかし高校の図書館で居場所があった。すべて図書館で過ごした。落第スレスレで卒業したが、本を読んでいたことがコンピュータに繋がり、資格を取り、それが学習意欲を生み出し、現在大学で勉強をしている。本を通じて培われる学力、生きる力というのがあると思う。しんぶん赤旗にも和歌山の同じような例が載っていた。本が子どもを救う、育てるというのを感じている。
 
●今の話はどこの所でもある。私の孫は「毎日一冊読む」と言って、塾で行くよりは安いものと考えてやったら、孫の関心が色々に広がった。本を読むのは大変大事だと思う。
 
●子どもの居場所、どういうところで子どもが成長していけるか。ひとつは文化、自然、そして人間関係。求めているのは人間関係だが、それができないときに本などの文化がそそれを受け入れる。そして、将来につながるものが見つけられれば良い。
 
●息子は、14歳で中3になる。今まで6年間不登校になる、学校には行ったり行かなかったり。今、初めて「無理しないで」学校に行けている状態である。今まで勉強はシャットアウトしていた。今になって「勉強が面白い」と受け入れられるようになっていた。今までは、どこか回路がふさがっていた。一人一人勉強を受け入れるものが違う。先生は「学力をつけなくては・・」と思ってがんばるが、必ずしも子どもにはうまくいっていない。中卒で就職して、がんばっても劣等感をもたざるを得ない状態の28歳の人に「教育基本法」の本を送った。「自分の意思で自分を変えていける」ことに希望を感じたとの感想が返ってきた。
 
●カウンセリングをしている。カウンセリングは本来民主的なもの。しかし、河合隼雄が日本でも有名な人なのに、自己実現ではなくて、マイルドコントロールをするので、学校の先生で「カウンセリング嫌い」がある。本来のカウンセリング理解を深めてほしい。カウンセリング本来の良さを知ってほしい。
 
●昭和22年に新生中学校の1年生だった。兄は旧制中学校の時代。「義務教育」についても勉強していたら明治初年は4年間の義務教育だった。教育は「誰が何を要求するか」の接点の中で行われているように思う。明治初期は、子どもを学校に通わせる要求に親がなっていなかった。今日、親の要求に支えられる教育になっていかなければならない。(憲法)第26条の1項には、子どもを含めた「国民」になっている。「国民」の概念は捉え方によって難しい。要求によって「国民」の解釈を捉えていかなければならない。「憲法学習会」でもそうだが教育基本法を読む場合の「視点」も大事なのではないか。
 
●憲法26条、教育基本法4条も「学校で受ける教育」とは書いていない。ほかにも学校以外で教育を受ける場がある、と運動をしてきたが、新自由主義の元で、新しい形の教育産業も生まれている。どういう形で学校以外の教育の場や中味があり得るのかを示してほしい。
 
●民間の教育臨調がでているが、教育を変えるには「上からの改訂」と「下からの改訂」があるように思う。右派的な下からの改訂の運動も生じている。「よくできる子ども」にもプリントを出して、補習するというのがあったが、エリートを育てる一貫として、小中一貫校の試みも生まれているのではないかと思う。そのへんの事情も教えてほしい。我々の教育改革がどのような所で位置づけられるのか。
 
●まとめにかえて(春日井)
 第一に、「義務」に関して、学校教育法で学校教育に子どもを生かせないと罰金が科せられるが、国の義務には罰則がない。ここを問題にする必要がある。第二に、「9年間」の問題の中には「学び直しの場」をどのように保障していくのかという問題がある。第三に、今ある学校をどう子どもに責任を負ったものに変えていけるのか。その視点は「子どもの要求にどれだけ応えていけるのか」にかかっているのではないか。第四に、学校教育以外の場に「学びの場」をどう育てていくのか。しかし「公教育解体」と紙一重でもある。それには「子どもの要求にどれだけ応えたものになっていくのか」また「公的な助成」がどれだけあるのかが問題になってくる。第五に、「評価」については、十分深められなかった。九州の事例でも「関心・意欲・態度」を最初に持っていくのは「教科教育の道徳化」であって、社会科の中でも「愛国心」の問題も取り上げられている。評価の「4つの観点」の「重み係数」として、関心・意欲4割、知識理解1割・・・として「絶対評価」として、いくなどの矛盾も生まれており、今後検討が深められていく必要がある。第六に、心のノートについては、「このノートに名前を付けてね」として9年間続けていくやり方。やはり内面化されていく。これに対して子どもの抱くであろう「不信」を大変危惧している。
 
○事務局から:参加29名で、初参加5名だった。次の学習会の機会にも参加してほしい。「ひろば・京都の教育」で「心のノート」の特集をしているのもあるので、よかったら持ち帰り、広げてほしい。
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