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第11回学習会
第10条(教育行政)教育は不当な支配に服することなく・・
**教育基本法連続(月例)学習会第11回「第10条(教育行政)教育は不当な支配に服することなく・・・」での室井修さん(近畿大学教授)の話題提供を紹介します。なお、当日の記録および小見出し付けは京都教育センター事務局で行ったもので、文責は京都教育センターにあります。**


話題提供:室井 修さん(近畿大学教授)
 
「不当な支配」に関して問題は多い
 
 室井です。与えられた時間話をしたい。教育行政に関しては、教育内容・教育課程・教職員の問題で「不当な支配」に関して問題は多い。戦後の教育行政の中での位置づけ、法律の上でどうなのか、判例ではどうなのかを、話題提供したい。戦後の教育行政は数十年たっていろいろな展開があるが、最後に配った資料「戦後教育行政略年表」をみて、いろいろ思い出していただきながら今日の問題状況を話したい。
 レジメ(3枚)にそって話を進めたい。教育基本法第10条をみてゆく際に、まず日本国憲法との不可分一体性をみておかなければならない。同時に戦前の教育行政の批判の上に立って展開されていることを見ておかなければならない。21世紀に向けての教育行政の理念が示されていく、豊かにされていく基本がここにある。
 本条は、教育基本法各条項に明示された教育理念や原則を実現する教育行政の任務と限界を定めた包括的な規定であり、それだけに教育基本法解釈の最大の争点ともなってきた。本条の意義は、戦前のわが国の教育・教育行政に対するきびしい反省・批判の上に定めされている。教育基本法の立法趣旨と同じく、本条はとくにこの趣旨の認識が重要である。
 
教育基本法第10条は、1項と2項からなっている。

第十条(教育行政)
 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。  
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。 
 
「教育」と「教育行政」とをはっきりと分けて捉える
 
 第1項の主語、「教育は、」第2項の主語、「教育行政は、」というように、「教育」と「教育行政」とをはっきりと分けて捉えていることが重要だ。
 戦後まもなくしても文部官僚の書いた文章を見ても、教育を教育行政の一部として捉えようとしている。しかしこれは戦後否定されたものである。文部官僚は、三権分立の中の行政(内務行政)の中に「教育行政」を包摂している。そして「教育」自体を、「教育行政の一部」として捉えようとしている。(参考文献の紹介 今村武俊『教育行政の基礎知識と法律問題』第一法規1964)そこには教育行政の特殊性、教育の独自性・特殊性を捉えようとはしていない。だから「学校教員に教育の自由・自律性があるのはナンセンス」ということになり、教育行政の末端に教師がいるということになる。それを補強する形で、現在でも「教員(=公務員)は学校行政の中で上下の支配関係に置かれている(特別権力関係)」ということが援用されている。そして「市民的権利はない」とされ、生徒も「営造物利用者」として「その支配関係に入らなければならない」とされている。それに従わなければ「出ていけ」ということになる。先の本の著者は「これは便利な考え」として戦前の解釈を説き始めた。こうした「戦前の」考えが、言葉では言わないまでも、続けられ、広げられている。
 しかし教育基本法第10条は、これを否定して「教育」と「教育行政」をはっきりと区別している。戦前の教育行政の反省の上に立って確立されたものである。第10条全体ではまずこういう点をみていただきたい。
 
教育は、不当な支配に服することなく
 
 第1項では「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」と書かれている。教育に対する「不当な支配」の禁止と教育の国民に対する直接責任を明らかにしている。この「教育」の核心は、教育の内的事項、教育内容や方法などである。戦後直後の行政側は、教育を「内的事項」と言って「内容・課程・方法」など教育の核心的部分に関して「不当な支配があってはならない」と言い、この「不当な支配」というのは、「政党・官僚・財閥・組合など国民全体ではない勢力、とりわけその中心的な勢力であった官僚、と言っていた。「不当な支配」は法成立当初は「政治的・官僚的支配」が問題とされてきた。これは、戦前の教訓でもあった。戦後でも、これは留意しなければならない点で、たとえば「アンケート回収」でも我々がやればあまり回収率は良くないが、文部省がやれば回収率が良い、これは今日も文部科学省・行政が重要な影響力を持っているということを示している。
 「不当な支配に服することなく」というのは、教育の自主性の尊重である。内的事項(内容・課程・方法)への干渉が許されると、教育の自主性が損なわれる。「教育の自主性の尊重」の確認が重要である。何故「不当な支配」を許さないことが重要か。これは教育の自主性が侵されるからである。教育は、何かに縛られたり支配されたりしてはならない。教育は高度な精神作用である、だから自主性・自由は何よりも大切にされなければならない。教育が教育として機能していくためには、学ぶ主体としての者の自由(学問の自由)を保障することが重要である。
 
誰が「不当な支配」をするのか
 
 誰が「不当な支配」をするのか。一番の問題は「公権力」つまり現在政治支配をしている者である。しかし、文部省は「文部省は不当な支配には入らない、正当な支配である」と言っている。それは「法に基づいて行政をしているからだ」という。文部省は「最高裁判例でも言っている」というが、これは嘘である。最高裁の「旭川事件(学力テスト)」判決(1976)、でも「10条1項については、教育行政が行う行政であっても、不当な支配に当たる場合がある。」と言っている。ここのところは文部省はあえて取り上げようとはしない。判例では、教育内容との関係では、「教育内容に関する国家的関与に関してはできるだけ抑制されなければならない。」とも書かれているが、これには文部官僚は全くふれないで、「国家的関与ができないとは言っていない」といって、関与を正当であるかのようにいっている。
 1990年の伝習館高校事件判決で「学習指導要領」に関して、「法規命令」であると最高裁小法廷の判例があり、文部省はそれをもとに言っているが、これは何らの根拠をもたない判決であって、問題にもならないものである。もともと教育行政の関与は「指導・助言」であって、あくまでも主体を侵すものではない関与であって、強制するものではない。その点で言えば、(蜷川民主府政時代の)京都府の教育行政の姿勢がその典型であって、地域の実態に合ったもので、しかも状況をくみ上げ、議論を重ね、提示はするが、決して「強制」するものではないかった。また、もともと戦後すぐの文部省の「学習指導要領」でも、現場の教員が教育課程を編成するさいの「手引き」「参考」にすぎないとされていた。あくまで「助言」文書であって、強制力がなかった。それが変えられたのは昭和33年、1958年の習指導要領の全面改定からであって、「法的拘束力」を持つものとされた。だから「日の丸・君が代」(の掲揚や斉唱)についても、それは国旗・国歌法があるからではなくて「学習指導要領」の法的拘束力をもとにしている。文部省は「法律体系の委任」だから「拘束力がある」としているが、それは「委任の範囲を超える」ものであると言える。
 
国民全体に対し直接に責任を負って
 
 「国民全体に対し直接に責任を負って」の意味について、「国民」とは、一人一人の個人としての国民(peopie,人びと,人民)を指し、学習主体である子ども・父母・住民(国民)のすべてに対して、とりわけ学校教職員の教育活動・実践が国民の意思と直結してすすめられることの責任が課されている。これは教師の教育権限の独立と学校自治の原理を内包そており、教育行政の上命下服体制からの独立を意味している。これはまた、公選制教育委員会の組織原理をも含むものである。
 
「教育の自主性」を損なう国家的介入を認めてはいない
 
 第10条は、「教育の自主性」を損なうような、国家的介入を認めてはいない。それでは「関与できる」とする「正当な理由」は何か、それが検討されなければならない。最高裁旭川学力テスト判決でも、教員の問題に関連し、それが一部書かれている。「(4)専ら自由な学問的探求と勉学を旨とする大学教育に比してむしろ知識の伝達と能力の開発を主とする普通教育の場においても、例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないわけではない。」「(5)もとより政党政治の下で多数決原理によってされる国政上の意志決定は、さまざまな政治的要因によって左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二十六条、十三条の規定上から許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な蹴って決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。」
 (4)にもあるように、一定の範囲で教師の「学問の自由」をも認めている。そのためには「教員の責任の自覚」も大切になっている。先生方の責任も大きい。文部省は「教員が勝手なことをやっていては、(教育内容を)保障できない」として介入を正当化しているが、文部省はその程度でしか、教員の教育の自由を認めてはいない。
 
教育行政の任務とその限界
 
 資料Bを参照してほしい。「本条第二項は、第−項の国民と教育との関係を基礎にして、教育行政の任務とその限界を定めたものである。従来教育行政官は、中央集権的な教育行政制度の運営者として、教育が国民全体に対し責任を負うという自覚に欠け、独断的傾向が強かったのである。将来においては、国民の名をかりて不当な影響が教育に介入するおそれがある。教育行政官吏は、かかる不当な支配が教育にはいらないよう、教育を守らなければならないのである。「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」というのは、先に並べた教育行政の特殊性からして、それは教育内容に介入すべきものではなく、教育の外にあつて、教育を守り育てるための諸条件を整えることにその目標を置くべきだというのである。「教師の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ十分に現わされる。この空気をつくり出すことが行政官の仕事なのであって、その反対の空気をつくり出すことではない。」(米国教育使節団報告書)このような趣旨からして、視学の任務も従来のような監督指導ということから脱して、「統治的または行政的権力をもたぬ、感激と指導を供与する、相談役と有能なる専門的助言者」というごときものにならなければならないと思う。」(教育法令研究会『教育基本法の解説』国立書院1947より)
 これは第2項にも関連しているが、教育行政の特殊的な位置として、教育に介入するのはなく、教育の外側から教育を守り育てる。教育の自由(の雰囲気)を作り出すことが目的であって、その反対ではない。しかし、どんどんこれが変わってきて、1998年中教審答申では「教育内容との区別・・・指導助言」といいながら、その中味が事実上強制になっている。「指導助言」といいながら、教育行政で事実上はそうなっていない。
 
第2項の意義
 
 第2項の意義は、「教育行政の意義と限界」を明らかにしたものである。先ほどの内的事項に対して「外的事項」と言い、内的事項を支える「教育条件」と言っている。「教育の目的を遂行するに必要な諸条件」とは、第1項の趣旨(教育基本法前文・1条・2条を基本)の「自覚」を前提にして、それに制約された規定となっている。即ち、それは、教育予算、学級・学校の規模、教育施設設備等のいわゆる教育の「外的事項」の意味と解され、一般には「教育条件」と称される。教育行政の原則は「教育内容不関与」である。そして「内的事項」について専門的技術的指導助言行政が原則である。しかし、それがだんだんと変えられてきている。文部省は「教育条件」を「包括的に解釈」し、「合法的支配は正当な支配」という名で、「条件整備には教育の内的事項も含む」と主張している。
 
「教育は」を「教育行政は」と書き換え
 
 2004年6月16日の与党による「教育基本法改正に関する検討会『中間報告』」の第10条(教育行政)に関しては、「教育行政は、不当な支配に服することなく、国・地方公共団体の相互の役割分担と連携協力の下に行われること。」「国は、教育の機会均等と水準の維持向上のための施策の策定と実施の責務を有すること。」「地方公共団体は、適当な機関を組織して、区域内の教育に関する施策の策定と実施の責務を有すること。」と書かれており、「教育は不当な支配に服することなく」を「教育行政は、不当な支配に服することなく・・・」と書き換え、教育行政が有効に発揮できるように、また国と地方が役割を分担しながらやれるようにしている。また、「政府は、教育の振興に関する基本的な計画を定めること。」としている。「教育基本法計画」に、教育についての考え方(教育観)などが入って、それを政府ができるというのであれば、それが一人歩きができてしまうことになる。これを教育基本法に入れることは、これを根拠に政府がどんどんと教育に介入していくことを許してしまうことになる。これはまた、先の「自民党の憲法改悪試案」の中での「国民の人権の制限」とリンクしている問題でもあって、重要な変更点であると、目を光らせていかなければならない。
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