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「今なぜ教育基本法「改訂」なのか」・・・・(2)
話題提供:広原盛明(元・京都府立大学学長)


**教育基本法連続(月例)学習会第12回「今なぜ教育基本法「改訂」なのか・・・」での広原盛明さん(元・京都府立大学学長)の話題提供を紹介します。なお、当日の記録および小見出し付けは京都教育センター事務局で行ったもので、文責は京都教育センターにあります。**
 

教育基本法改悪を国家戦略論から考える

 今日は、レジメは用意していませんが、色々な形で話をしたいと思います。

 私は、普段はまちづくりを考えていますが、今日は視点を変えて、何故教育基本法改悪がきているのか、国家戦略論から考えたいと思っています。今の社会の矛盾は、「どういう国家を創るのか」という根本問題に向き合わない限り解決できないような深刻な矛盾です。政府側には、「国連安保理事国になりたい」という主張が象徴するように、アメリカに追随して世界に出て行くためには、国民の意識を変えなければならない(いわゆる国際貢献主義というイデオロギーの注入)。そのための教育基本法がじゃまになっているという考えがあります。政府は、教育改革の中では、「トップリーダー層」をつくりたいと思っていますが、しかし教育基本法改悪の本当のねらいは、実は広範な国民、中間層の意識改革をねらったものではないでしょうか。底辺層は治安問題として対応しようとしています。

 明治国家成立当時は、ある意味「体制転換の危機」であったから、学制発布や大学令など大規模の教育改革をしたが、それは階層的には全階層からトップリーダーを選ぶというもので(立身出世主義)、これはものすごく成功したと思います。

 戦後、日本は海外での植民地を失ったので、国内の資源の有効開発の中で国家を建てていくということが求められました。その中心は成長主義イデオロギーで人材養成することでした。高度成長期は製造業全開の時代だったから、「均質で上等の労働力」をどのように育成するかが課題でした。この点で、他のイギリス・アメリカなどと比べてみると、他の国は外国から労働力を導入したが、日本では識字率も高く、農村にも優秀な人材がたっぷりとプールされてあり、豊富な国内労働力の調達が可能でした。その結果「合理化」などの「改善」も、職場でできるような優秀な人材を、国内で育ててきました。これが「みんなが中間層」という意識を持つような社会を育ててきたと思います。むろん憲法・教育基本法との関わりの矛盾はあったが、しかしこの時点では、教育の中で、未だ階層差別的な扱いというものはあまりなくて、終身雇用の日本企業主義というものをつくっていました。

 しかし、当時はそれで一定満足していたとは思うが、日本が外国に進出するなかで、貿易摩擦を起こして、それを克服するために外国に工場をつくって、企業が国際化していく中で、今までのような中間層をコアにした国内中心型の日本型企業社会を維持していくと言うことがじゃまになってきました。今までのそうした体制が、自民党の一党独裁の政治を支えてきました。しかし最近は、海外にどんどん投資をして、なにが起こるかわからないから軍隊で守ってもらって、海外にお金をまわしたいというところから、従来のように国内にお金をまわせなくなります。そこから国民には、「痛みに耐えてもらわなければならない」「国際競争に勝たなければならない」というマスコミをふくめた宣伝が一斉に行われるようになりました。しかし、その中で中間層の中にとまどいと動揺が起こってきています。具体的には、年金・医療の問題などで起こってきて、このままで「痛みに耐えろ」では維持できないところまできています。そこで「教育」によってそれを維持しようとして、経済面や軍事面も含めて国際競争に打ち勝つための「教育改革」が声高く叫ばれてきたのではないかと私は思います。

政府の教育「改革」は成功するのか

 この小泉首相の改革が果たして成功するかどうか。東京でも石原都知事がたいへんひどいことをやっていて、東京都立大学でも、都の方針を「飲むか飲まないか」「辞めるか辞めないか」、ということになり、「このまま行ってしまうのではないか」との懸念がありますが、私はそうは思いません。

 一つ目は、いろいろな情報が公開されて、オープンになっている状況があります。情報を完全には隠しきれない。戦前のような形での情報操作はできない。今、マスコミを使って大規模な世論操作がやられてはいますが、しかし世界からは大きな情報が流れ込んでいるのであって、完全にはシャットアウトできない。

 二つ目は、特に教育に関わって、子どもたちを大国主義・競争主義的に育てていくことは成功しないと思います。「競争」には、目標が共有されなければなりません。戦前は「立身出世」という共通目標がありましたが、今日の青年の目標は多様であって、必ずしも同じ目標を持っているとは言えません。目標が多様化すれば、それに従っての教育目標が用意されなければならないが、それをしなくて、(目標が多様化しているのに)いくら「競争」的なものをもってきてもダメだと思います。

今、大学生・高校生の所で、大きな変化が生まれているのではないか。

 私は、ゼミを持っていますが、それに参加する学生の中には、「田舎に帰って故郷で何かしたい」というような希望を持っている者もいます。若者は「何が豊かな生活なのか」を考え始めています。これは大変大きな進歩ではないかと思っています。また、高校生の変化で、「9条の会」で年配の方が憲法署名などに取り組んだ時に、同年代の人たちはあまり署名しないのに、高校生の署名が多いという。これは他の地域においても同様の傾向があります。これは興味ある現象です。例の、イラク戦争の中で人質となって捕まった高校生がいましたが、彼は特異なのか一般的なのかは議論がありますが、しかし「受験戦争」だけには組しない高校生の流れというものも広がってきているのではないか。少なくとも、上から設定された目標に向かってみんなが動員されていくような時代ではないと思っています。

 天皇制の問題についても、若い学生たちは意外に客観的に見ています。昭和天皇が亡くなって世代交代したときに、今の天皇は「憲法を守って天皇につく」と言い、右翼がたいへん怒りました。また、今の皇太子もこの前の「妻の人格否定発言」のように戦後の民主教育に対するかなりの認識を持っていると思います。

 三つ目は、青年をそういうもの(大国主義・競争主義)にかりたてる客観的なものがないという点です。一生懸命に勉強しても、将来は保障されない。そういうものが中流意識の崩壊、多様化を生み出しています。  最後に「少子化」の問題です。今まで人口増を想定していろいろやってきたものが、全部総崩れになってしまっています。人口推計の経過が発表されて、かなり正確な人口予測がたてられています。今まで都道府県レベルまでやってきたが、最近それを市町村までおろした推計をしています。その中で、教育の主体である15歳未満の年少人口の低下が激しく進んでいることがわかります。現在近畿で年少人口は、304万人。京都府では36万3000人。2030年には近畿では30%減少して220万人になると予測されている。非婚化・晩婚化・晩産化は大きな流れなになっている。東京が出生率最低で、京都が下から二番目で、一人の女性が生涯に産む子どもの数は1.2人である。こうした少子化は教育政策などにどのような影響を与えるのでしょうか。子どもが少なければ、子どもを大切に育てたいと思いますし、何が子どもの生活と教育にとって大切なのかという認識も変わるでしょう。今、町づくりに問われているものは、「子どものセキュリティをどうするか」です。先日八幡市に行きましたが、パチンコ・ゲームセンター・・・・要するに、地域社会の中で、子どもがそのような誘惑に巻き込まれるようになっています。そこに、また競艇場をつくろうとしています。

 親の中にも大きな変化が生まれています。それは、「地域が参加しなければ、子どもは守れない」ということです。地域の中で子どもを育てていくのだということが急速にできてきているのではないか。国家のために命を捧げるような子どもではなく、地域の中で生きるような考え方が広まってきているのではないかと思います。

教育基本法の改悪を許さないような社会的状況も生まれている

   教育基本法の改悪を思うと、それは大変な事態ではあるが、同時にそれを許さないような社会的な状況も生まれていると思います。私は、つい最近京都府北部の水害調査に行って、大江町の役場にも行ってきましたが、もともと高台にあった役場を、なぜ下場に持ってきたか、水害を想定していなかったことが問題です。地元には「以前に大きな水害があったので・・・」という反対意見もありましたが、しかし強行した。しかも水害で役場が被害にあって、町長は、どこかに行ってしまって、3日間は指揮・命令系統が不能になりました。今、新潟でも、大江町や山間部でも、高齢化が進んでいて、「ボランティアの力を借りなければ、復旧もできない」状態になっています。それに応えたのが多くの若者であり青年たちでした。こうしたことについて、教育でも同じ事が言えるのではないでしょうか。学生も、ごく自然な気持ちでボランティアに参加をしている。こうした所に希望が持てるのではないかと思います。

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