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教育基本法学習会2005
第4回学習会
−−−−日本の教育政策の特徴と、その危険性−−
 ここに掲載した記録は、2005年10月8日に開催された「京都教育センター主催 教育基本法学習会2005 第4回の内容を当日の記録にもとづいて京都教育センター事務局の責任でその要旨を編集したものです。文責は、京都教育センター事務局にあります。

◎日時    2005年10月8日(土)午前10時から12時

 場所    京都教育センター室

◎問題提起   市川 哲さん(京都教育センター)

日本の教育政策の特徴と、その危険性(要旨)
市川 哲さん(京都教育センター)



司会:足もとの悪い中、お越しいただきありがとうございました。昨年の連続学習会に続き、今年は6回の学習会を予定して、今回はその4回目で、「日本の教育政策の特徴と、その危険性」市川哲先生(京都教育センター 地方教育行政研究会)に話をしていただく。市川先生から30分ほど話をしていただいて、その後論議を深めたいと思う。

市川:よろしくお願いします。準備が十分にはできておらず、今まで話したことをリメイクした程度で、十分な話ができないのでお許しいただきたい。私の問題意識を出したい。あとで十分論議してほしい。

はじめに

 小泉チルドレンをはじめ自民党が「大勝」。小泉チルドレンは憲法・教育基本法を本当に読んだことがあるのか。何もわかっていない人たちが、「いざ」というときに国会で投票をして、それで国の将来が決まってしまう。いささか悲観的になっている。

 自民大勝の仕掛け人がいる。世耕弘成(せこうひろしげ)(和歌山県選出参議院議員)であり、彼は「有権者とようやく戦略的なコミュニケーションができるようになってきた」と言っている。急きょ、党改革実行本部事務局次長、広報本部長代理(元NTT本社広報部課長)になった。『論座』(2005.11号)の中で「このようにして選挙に勝った」ととうとうと述べている。たとえばテレビ番組途中での対応など紹介している。自民党の総選挙の宣伝局長代理として、彼が中心となってやった。自民党内だけでなく、広報に民間からプロのスタッフも入れて、拡充して取り組んだ。読売新聞の調査によれば、テレビを見る時間が長ければ長いほど、自民党支持がふえている。自民党は「B29」できているが、民主勢力はあいかわらず「竹槍」でやっている。旧来と同じようなやり方をいつまでやるのか。


財界の勝利

 「菊」「鶴」タブーに加え、今回、選挙で見えたのは「日米金融資本」タブー。これは仲築間卓蔵(なかつくまたくぞう)が言っている。報道ステーションでは司会の古館伊知郎は、市田氏の郵政民営化への米国の介入発言に、声を荒げて割って入り、意見を遮(さえぎ)り、「郵政民営化ありき」の私見を絶叫してみせた。次週、謝った。

 日本経団連が「企業の政治寄付の受け入れる意思を明らかにしている自由民主党と民主党」を対象に「政党(政策)評価表」にもとづいた政治献金(04.1)を開始し、保守「二大政党」づくりを進め、政党を丸ごと買収して、多国籍企業奉仕国家を目指している。また、イランでの三井の資本投資の失敗に学んで「パワー(自衛隊派遣)」で権益を守ろうとする動きがある。

 財界の「人材育成」要求と「国の教育政策」は、グローバル時代の「人材育成」をめざし、「教育振興基本計画の策定と教育基本法の在り方について(諮問)」(2001年11月26日)にもとづき進めている。彼らは、国民統合の中心をどこに置くのか?かつてのような天皇を中心に置くのか。「国際貢献」が中心になるが、ナショナリズム、新自由主義との「統合」を目指している。

 では、国民の運動はどうか。戦前と比べれば、民主的な運動の持っている力はきわめて大きいが、相手はさらに先を進んでいる。それが教育政策形成過程に現れている。


教育政策形成過程の変化

 「下位政府システム」型から2001年の「中央省庁の再編と内閣府の創設」を経て「トップダウン的な政府の政策立案・決定の構造」(小川正人)への移行を目指し、内閣府が「国政上重要な具体的事項に関する企画立案・総合調整」と「内閣総理大臣が担当することがふさわしい事務」を担当する大統領型の政治手法をとるための強力な手段となっている。「経済財政諮問会議」は、「内閣機能の強化」の一環として内閣府に設置された合議制機関で、いわゆる「骨太の方針」を作成する。「経済財界諮問会議」は「インナーキャビネット」「政・官・民(財・学)三者の協議体制」(宮井清陽)であり、専門委員や内閣府の内部部局に入っている。諮問会議の合意や決定は議長(総理大臣)が承認したものであり、それらは各省庁の政策に大きな影響力をもつ。


財界の基本戦略と教育要求

 財界の基本戦略は、日本経団連『活力と魅力溢れる日本をめざして』(奥田ビジョン)に見られる。これは「2025年度の姿を念頭に置いた新ビジョン」で、財界の「いらだちを示す」(「奥田ビジョンを読む」神戸女学院大学・石川康宏)ものだ。「改革提案は、1986年の『前川レポート』(国際協調のための経済構造調整研究会報告)や1993年の『平岩レポート』〈経済改革研究会報告)をはじめとして、すでに数多く出されており、もはや何が必要、どのような施策が必要かを議論するのではなく、実行こそが求められる段階に」あり、「経済戦略会議は,1999年2月に答申をとりまとめた。『樋口レポート』と名付けられ、数多くの改革提案が盛り込まれたが、依然としてその多くは店晒りにされたままである。こうした実態を目の当たりにして,深く考え込まざるをえない」と述べている。「奥田氏はまるで小泉内閣を後見し国民に教訓をたれる「専制君主」のよう」(大木一訓「財界戦略の新展開と労働運動」;『労働総研ニュース』No.166号、2004年1月)だとも評されている。


財界の教育要求

 日本経団連『21世紀を生き抜く次世代育成のための提言−「多様性」「競争」「評価」を基本にさらなる改革の推進を−』(2004.4.19)は、「奥田ビジョン」の教育分野での具体化をはかる提言である。「日本経団連では、昨年1月1日に公表した新ビジョン「活力と魅力溢れる日本をめざして」の中で、多様性のダイナミズムを引き出すためには、自分の得意分野を持つ多彩な個人と、社会の諸分野で活躍するリーダーが必要になると指摘し、そうした人材を育成するために、均質性を重視してきたこれまでの教育のあり方を根本から見直すことを求めた。以下において、新ビジョンの実現に向けてこれからの教育のあり方を具体的に提言する」とある。

 この提言の「はじめに」の現状認識は、「資源の乏しいわが国にとって、競争力の源泉は人材」であり、「今こそ、教育を国家戦略の重要な柱として位置付けることが必要」であると、IT化、グローバル化の中で競争を勝ち抜く」ためには「わが国社会が誇ってきた倫理観を改めて身につけ、あわせて自国の文化や歴史などの教養をしっかり持つこと」、「与えられた知識だけに頼るのではなく、ものごとの本質をつかみ、課題を設定し、自ら行動することによってその課題を解決していける人材を育成すること」、「教養を備えた各界におけるリーダーの養成」が必要だが「現在の学校教育は、卒業後の実社会で必要とされる知識と判断能力を十分身に付けさせているとは言い難い」としている。

 教育に対する期待については、「産業界は以下の3つの力を備えた人材を求めている」とし、「第1に「志と心」である。「志と心」とは、社会の一員としての規範を備え、物事に使命感をもって取り組むことのできる力である」「第2に「行動力」である。「行動力」とは、情報の収集や、交渉、調整などを通じて困耗を克服しながら目標を達成する力である」、「第3に「知力」である。「知力」とは、深く物事を探求し考え抜く力である。各分野の基礎的な学力に加え、深く物事を探求し考え抜く力や論理的・戦略的思考力さらには高い専門性や独創性が求められる」としている。しかし、「すべての生徒・学生に、この3つの能力を完璧に満たすことを期待しているものではない。」とする。

 そして、「大胆かつスピード感ある改革の必要性」として、「まず考えなければならないことは、公教育の充実である」。「学校教育よりさらに進んだ学習のための塾通いは、教育の多様性という観点から認められるとしても、純然たる学校教育の補習のための塾通いが存在することは、公教育の不備を示すものである。こうした事態が解消されるよう大胆かつスピード感ある改革が必要である」。そのためには「現場の意識改革を待つのではなく、教育機関が互いに切磋琢磨する環境を整備することによって、学校や教員が改革に取り組まざるを得ない状況をつくることが重要である」とする。

 また、教育行政については、「多様性」「競争」「評価」を取り上げ、多様性に富んだ教育に向けて現場の裁量を拡大する」。「文部科学省の役割を、学習内容の最低基準を提示する役割に絞り、その基準を満たしていれば、アプローチの方法については地方の教育行政、教育機関、教員の裁量に委ねるべき」であり、「学校運営について公設民営型の運営や授業の外部委託を、教育委員会の判断で積極的に導入できるよう規制緩和すべき」、「「競争」と「評価」を基本に現場の取り組みを促す」=「教育機関が互いに切磋琢磨する環境を整備することによって、学校や教員が改革に取り組まざるを得ない状況をつくることが重要」。「学級数や学生数など学校の規模に応じた予算配分から、現場が創意工夫を発揮してつくりあげた研究・教育プログラムに対する予算配分へと考え方を根本から転換すべき」。「各教育機関の取り組みに対する評価を徹底する」、そのために「教育目標の開示、その達成状況等について情報公開し説明」し、「校長や教頭による教員に対する評価とそれに応じた処遇制度〈給与・賞与の査定)、校長、教頭を補佐する管理職制などを速やかに導入すべき」としている。


グローバル時代の社会像

 財界や国がベースにする社会像「知識基盤経済社会」のようなものがあるのではないか。これはEU「リスボン戦略」で述べられている。これは2003年3月、EU加盟国首脳は、2010年までに、EUを「より良い職業をより多く創出し、社会的連帯を強化した上で、持続的な経済成長を達成しうる、世界中で最もダイナミック、かつ、競争力のある知識経済」地域に発展させるという目標を定めた。つまり、IT技術革新、市場の活性化、完全雇用の実現、企業競争力の強化に必要な諸策を実施することによってEUをより豊かにし、残存する地域間格差を是正することを政策目標としたものである。

 『平成11年度 科学技術の振興に関する年次報告(概要)』〈科学技術庁、2000.6)「第3章 21世紀における科学技術と社会の関係 第2節 知識基盤社会への対応ロ.知識基盤社会への移行」の中で、「21世紀の社会は、科学技術を中心とする新たな知識の旺盛な開発と社会への適用を求めている。経済社会においては、知識と情報をいち早く獲得した者が生き残るといった競争が激化する。また、科学技術と社会はますます接近する」。「このように、21世紀の社会は産業や国民の生活など社会のあらゆる活動が知識を基盤として急速に展開される「知識基盤社会」へ移行していく」と述べている。

 その具体像の一つが「ユビキタス社会」であり、それは「コンピュータをどこにいても活用できる」社会のことである。現代の地上波、TV電波帯をなくしてモバイル電波帯として活用し、いつでも、どこでも、何でも、誰でもが情報を受けたり発信したりできる社会をつくる。しかし、パソコンやインターネットなどの情報通信技術を使いこなせる者と使いこなせない者の間に、待遇や貧富、機会の格差が生じる(デジタルディバイド)。個人間の格差のほかに、世代間、国家間、地域間の格差が生じてくる場合もある。

 我々が「どんな社会を目指すのか」の論議を抜きにして、たとえば、知識社会がくるのかなどの論議、それを土台として教育についても語る必要がある。そこのことができていない。我々の側が、従来の思考枠から抜け出ていない。社会の変化に学校教育はどう応えるのかが問われている。これからの社会像(どのような)を、をリアリティをもって想起することができているか、われわれに(未来)社会像はあるのか?


義務教育:子どもの権利と義務

 未来の教育を誰が決めるのか、ということに係わって、1999年4月「『教育への権利』に関する特別報告官による声明」を見ておきたい。1959年の「子どもの権利宣言」は「教育を受ける子どもの権利」を定めた。これは、子どもを「教育への権利」の主体としではなく、教育を受け取るだけの者として見る、当時の子ども観を反映したものである。「子どもの権利条約」で具体化された、「権利の主体としての子ども」という新しい子ども観は、徐々に各国の法律や政策に導入されてきている。「子どもの権利条約」も、義務教育を定めている。義務教育には疑いようのない価値があるからだ。義務教育は、「子どもの権利」という概念よりもずっと古くからあり、たとえ無理に押し付けられたとしても、そのことによって得られる価値が大きく、子どもは「与えられた教育を受け取る者」という受身の位置にある。初等教育の提供は政府の責務であり、学校に出席するのは子どもの義務であると考えられている。

 義務教育の法律を実行に移す能力は、国によってさまざまだ。同じように、強制措置にもさまざまなものがある。多くの国は、親をターゲットにし、子どもを学校に就学させない親や、子どもが学校に出席するよう保障しない親に対して罰金を科している。しかし、子どもをターゲットにしている国もある。だからこそ、義務教育を強制することが重大な人権問題となる。「子どもの権利条約」は、各国政府に対して学校への出席を奨励するように義務付けているだけで、強制することまでは言及していない。ヨーロッパ人権条約のような、より古い人権条約は、教育的管理の目的で未成年者を拘置することを合法的なものとしている。これは、「義務的な学校教育」という言葉をもっとも狭く解釈したものである。登校する義務を破ったかどで子どもを罰するために、「怠学」という特別な罪が作り出された。

 各国の実践を見ると、初等教育を義務的なものにすることが広く行われている。これは、すべての子どもが初等教育の恩恵を受けることができるように、国家が関与してきたことを示している。しかし、義務教育が存在することは、『教育への権利』の要素のたった一つが実現されたことを示すにすぎない。教育を選択する親の権利が認められていないかもしれないからである。さらに極端な状況もありえる。初等教育が強制的なもので、画一的な国家経営の学校システムのもとで与えられ、そこから抜け出す自由を親が持っていない。そのような場合には、教育は「フリー(訳注:無償、自由、束縛されない、などの意味がある)」という言葉のもつ、さまざまな意味にあてはまらないものとなる。


「子どもの最善の利益」を誰が決定するのか  今日子どもは『教育への権利』の主体とされているが、『教育への権利』を実現する際の意思決定には参加していない。国際人権法は、意思決定を親と国家の両方に委ねている。そして、親も国家も、当然のように、「自分こそが『子どもの最善の利益』を代表している」と主張してきた。子どもに『教育への権利』があることは、親や地域社会や国家が子どもを教育する義務に反映されているが、それと同じように、子どもが自ら学ぶ義務でもある。大人たちは「子どもの最善の利益」を図って教育の計画を立てるが、しばしば、「子どもの最善の利益」は何かということに関して食い違いが起きる。世代間の問題は、そこにも見て取る事ができる。  未だに家父長的というか「ここから先は危ないよ」というのが強い。「ころげおちて育つ」というのも子どもの権利である。


質疑応答・討論(略)

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