トップ ひろば ひろば136号
座談会
これでいいのか?京都の教育行政
倉本頼一(滋賀大学教育学部助教授)
魚山永子(新日本婦人の会京都府本部 小六女子・母親)
得丸浩一(京都市教職員組合副委員長) 司会



家のなかに閉じ込めても情報は入ってくる
 
 
得丸 今日は、子どもたちをとりまく環境の変化が、京都の教育にどう現われてきているか、社会の動きとの関わりのなかで考えてみたいと思います。まず、お母さんの魚山さんから日頃感じておられることをお話し下さい。
 
魚山 娘は乙訓の向日市の小学校に通う六年生ですが、社会全体に蔓延している文化といったものでは、女の子では小学校の五、六年生で携帯を持っている子は意外といます。私自身でも、一日に何回も変なメールが入っていますし、相手が子どもだろうと何だろうといろんなものが入ってきますよね。子どもにとっては本当に判断力がないなかで、裸のままでボーンとさらされているというか・・・。今日も高校生の一五歳ぐらいの女の子が友だちに売春を斡旋したという記事が出ていましたけれど、すぐにそういうところに結びついても不思議ではないような状況がいっぱいあふれている。それは、子どものせいではないのに、たいへんななかでいまの子どもたちは毎日生活しているのだなあと思います。
 
 物騒な世の中でもあって、暗くなるまで遊んでおいでということが、なかなか気軽に言えません。「ちょっとでも変な人がいたら、すぐに帰ってくるんやで」みたいなことを言わないといけないのは、本当に悲しい、嫌な世の中だということをすごく感じています。
 
 
得丸 倉本先生は、子どもたちの発達に関わる相談活動をしておられますが、そのへんの視点からお願いします。
 
 
倉本 私は直接、先生方、お母さん方の相談に応じています。世の中でいろんなことが起こつているものだから、「うちの子もこんなんにならへんやろか」という不安感を、相談に来られる方だけでなく教育研究集会の参加者でももっておられる方がたいへん増えてきていると思いますね。
 
 子どもを儲けや欲望の餌食にしてしまうような、そういうものはなくしていかないといけないけれど、お母さん方が言われるのは、「そんなものから守るために、私たちは日中に回ったり、パトロールしたり、監視してないとあかんのやろか」と。
 
 でも、いまの世の中、そんなことはできない。例えば、携帯電話をもっていたら家の中に渋谷の文化が入ってきます。いろんなそうした屈折したような情報や誘惑が、「お金が欲しい?」と毎日毎日テレビやマスコミ、甘い形のネットや携帯で誘ってくるから、子どもを家のなかに閉じ込めていたって、情報はいくらでも入ってくるし子どもたちは出ていってしまうわけです。
 
 だから本当に、心から「あなたは私にとってかけがえのない子どもだから」と、家庭や学校でメッセージを伝えていけば、子どもは「ここで頑張ろう」という存在感をもったり「自分は自分であっていいんだ」という自己肯定感をもち、自分に自信をもっていくことになると思います。「私は、このことはできないけれど、このことはできるよ」と子どもが言えば、お母さんも「あなたはそういういいところがあるのだから」、学校でも「君は、これを頑張っている」というように、学級で大事にされ、地域でおばさんから声をかけられる。それが結果として、そんなに目を光らせなくとも一番大事なメンタルなところをしっかりつかむということになるでしょうし、そのことがいま問われているのだろうというふうに思うのですね。
 
 
習熟度別はエリートづくり
 
 
魚山 いま一番気になっているのは、習熟度別、少人数授業のことです。どんどんとよく進む子、自分で考える子、先生と一緒にとりくむ子と三つに分かれ、一応子どもの希望を聞いて調整しているのですが、それが二、三年やると、固定化してきてしまう。子どもたちのなかでもわかってくるので、「あの子はようできはるわ」「塾に行ってるもん」ということが話題になっています。人数が少なくなるのは、みんないいと言っていますが、いまでも子どもたちの力に差があるのに、それがもっと大きくなるというやり方はおかしいのではないかと。
 
 また、運動会も九月二〇日前後と早くなり、なかなかじっくりとりくめなくなってきていますが、みんなで力を合わせてすることは大事なのではないかと思っています。
 
 行政や京都市のことで言えば、教育制度が非常によく変わりますね。何か思いつきのように「二学期制にしよう」としてみたり、高校制度にしても親にはほんまにわけがわからへんというところがあるし。何を基準に変えていってるのか、子どもたちにとってどうなのか、ということをちゃんと話し合って方針が出されているのかと疑問に思うんですね。
 
得丸 習熟度別の授業はたしかに京都市でもじわじわと増えてきています。親御さんのなかにはていねいに見てもらえるのではないかと歓迎する人もあるのですが、やっぱり学力がはっきりと固定化してしまう。一番低位のクラスに入った子どもがそこで勉強して上位の子どもに追い付くということは、絶対にあり得ないですから。そのことは多くの識者も指摘していることです。
 
 運動会が早くなったというのは京都市も同じです。もう練習する時間がない。二学期制で能率、効率を上げないといけないというところもあります。この「二学期制」は八月に文科省が調査したところ、小学枚では全国で二%、中学校が三%台です。
 
倉本 いまの文科省や教育委員会の「教育改革」は、親同士が結びついたり、先生と親が結びついたり、子どもと子どもが助け合ったり、援助したりすることを破壊しているのではないかと思います。
 
 それは何かと言えば競争的なところへ子どもを置く「新自由主義」と呼ばれているものなんですね。みんなが賢くなるとか、みんなが仲良くなる、どの子どもも人格を豊かにしていこうという、教育基本法で謳っている教育の目標とはまったくさかさまのことをやろうとしている。その一番典型的なのが「習熟度別、少人数学習」なんです。小学校二年生で能力に差をつけていく。小学校段階からエリートをつくる。そして高校もみんな同じように行かせるのではなく、中高一貫校というエリート校を新しくつくろうとしています。
 
 なぜ、エリートをつくるのか。いまの日本の経済が世界で打ち勝つために一握りのエリートをつくるのだということを、教育の至上命令にしているからです。すぐれた「人材」をつくるという目標を教育においているんですね。教育基本法や憲法が目指しているのは、人間を「人材」なんて見ていない。一人ひとりの人間の人格を豊かに育て、たしかな学力をみんながきちんともつことを目標にしています。それが邪魔になる。そこで教育基本法を変えて、いっそう能力別教育をつくろうとしています。子どもが減ってきたから、ほんまは余裕もお金も出てくるはずなんやね。だから、お金をムチヤクチヤ増やさなくとももっと豊かな教育にしていこうと思えば、できるんですね。
 
 ところが、そうではなくて、そこで新しい競争をつくろうとしています。就学年齢に差をつける。五歳、六歳、七歳を選ばせる案も考えられている。さらに、学校を選ばせる小中学校自由選択制。これは乙訓も一部、来年から出てきました。そして入った学校で「できる子」「できない子」「ふつうの子」のグループ分けをさせる。そしてもうじき出てくるのが小中一貫校。いま出ている中高一貫校が良いと言うけれど、それならどこの学校もそういうふうに連携したらいいのに、一部にすることによって一部のエリート校をつくり差別していく。塾に入れてないと行けないように経済力で差別され、徹底した階層別教育をやろうとしているのですね。
 
 けれどもね、やっぱりみんな怒ります。「僕をもっと大事にしてくれ」「うちの子を大事にしてくれ」という声があるからね。少人数の学級をこそつくるべきです。違った個性があるから、子どもは助け合い、.人格的なところも学ぶし、学力的にも学ぶんです。
 
 
「競わせる」教育
 
 
得丸 教育改革の一番元になっている二一世紀の教育新生プラン、レインボープランには、「躾は家庭の責任だ」と明記されています。家庭責任の問題と、もう一つは道徳教育の押し付けがさまざまな形で深められていくわけですが、京都も京都市独自で、京都市道徳教育振興市民会議を教育委員会の主導でつくりました。それが昨年、一万人アンケートを行なって、その提言を出そうとしてまだ出ていません。子どもだけでなく、親に対する押し付けも強められていくのではないでしょうか。その背景にあるのが、河合隼雄氏が中心になつて作成した「心のノート」ですね。彼は数年前まで永松教育センターの顧問という役職でずっといたので、京都の場合は他府県と位置付けが少し変わってくるところがあるのではないかと思っています。
 
 また、これまで教員全部に一万円の図書券を配っていたものを廃止し、教育委員会が選んだ「優秀教員」と言われる人たちに二万円の図書券を配って職場のなかでギクシヤクさせたり、「中高一貫校にわが子が行ってもらったら子育ては成功だ、子どもを勝ち組に残らせたい」という親の願いが生まれているという実態もあります。
 
魚山 掘川高校の説明会に行ったお母さんが言われていましたが、いまの時代、親の生活もたいへんだから、公立で進学保障されるところはいいというのが、一面にはあると思います。入れたらそれで「バンザイ」ではないのですが、入れたら勝ち組に残れるような思いは、私もなんとなくわかります。普通のお母さんでも、誰でもそぅいう思いをもっているだろうなあと感じます。それとは対照的に、せめて高校は普通に近くの所に行けたらいいのに、なぜ、そうした普通の思いが通らないのかという、両方の気持ちをもちながら・・・という気がします。
 
倉本 その説明会に行った小学生の子どもの作文を見せてもらったら、七月の熟いなかで自分の教室は四〇度近くに上がっているのに、説明会に行くとクーラー付きだった。「いいなあ、私もここに入れたらいいなあ」「それにしても、私らの学校はなんでこんな熱い部屋で勉強しないとあかんのや。腹立つ−−」というものでした。おそらく京都市内の各小学校からは一人か二人しか入れないでしょう。それなのに、西京高校では、初めは八五・五億円で最終的には九九億円使ったわけです。一方では、養護学校のクックチル方式の問題があったり、通信制の学校が校舎が古くて雨漏りするという状況の高校があるのに、進学校には湯水のようにお金を注ぎ込む。みんなの教育制度を良くしてくれるのならいいけれど、「悔しかったら、エリート校に入れ」というようなことですよね。
 
 不満をもったり批判する子どもには「私の成績が悪いから」、親も「うちの子はできが悪いから」入れないのだというふうに、「自己能力論」みたいなもので、これに不満をもたせないようにさせてしまう。みんなそれに対してはおかしいと思っているのに、そこへなんとか登りたいと煽(あお)られるものだから。こんなときに、「おかしい」と言える子どもをつくらないといけないし、「おかしい」と言う国民にならないといけないのだと思いますね。
 
 
本当のエリート教育とは
 
 
倉本 習熟度でもう一つ指摘したいのは、国語、算数、理科という主要な三教科はじっくりと考える授業なので、学級と違う集団で勉強すると所属意識が非常に揺れてしまうんです。例えば、自分の家があるのに、朝飯と昼飯と夕飯を違う家で食べているようなもので、寝るためにだけ自分の家に帰っているというようなもの。やっぱり子どもは安定した基礎的な集団をもつことがとても大事なことなんですね。
 
 頭の切り替えの早い子のなかには、それがまたおもしろいという子もいますが、不登校の子ども、いじめられている子、集団に入れない子、障害をもっている子、繊細な子どもたちは、主要科目でも自分の学級と勉強する時間が違うところへ行かないといけなかったり、担任とは違う先生が教えてくれるということが非常に不安定なことになるんですね。「少人数授業」をいろいろと弊害ないようにするために、現場では必死になって抵抗しているのですが、習熟度別を全面的にやられたら、競争的まなざしのなかで子どもたちは孤立して、友だちに対する思いやりとか、学校の居場所が不安定になってくる。不登校やいじめなどの、もっと深刻な人間不信を小さいときから子どもにつくつてしまう。教育の矛盾もいっそう深まってしまうのではないかと思います。
 
 だから、「少人数授業」をどう学級に近いものにしていくかと工夫をして、子どもを大切にしている教師は、一生懸命やっているので、お母さんは応援してあげてほしいんですね。子どもに少しでも人の喜びを喜びとできるような学習ができるように、教師と親が力を合わせていく。それには地域に教育を語る懇談会や集いなど、無数に子どもの子育てで手をつないでいくような網の目のようなネットワークで支援活動することがどうしても必要になってくると思います。
 
魚山 なかなか参加できないこともあるけれど、そういう場は大事なので続けたいと思います。学校のPTA活動でもアンケートで意見を聞いたりされています。学習のことなども、競い合いでなく、「お互いに一緒に伸びていくっていいねえ」「私たちが子どものときは、できる子が教えてくれて、人に教えるのは自分も力がいるから、大事で力になるよ」と話しています。そうしたつながりを子どもたちにももってほしいと願っています。
 
 体育祭の組体操でも、前日までできていなかったので「どうするねん」と思っていたら、本番にパッとできたんですよ。そうしたら「できたあ!」と泣いたり、やっている途中もみんなが「がんばろうな」「がんばろうな」と励まし合いながらやれて、後々の力になるだろうと思いました。これは削ってほしくない場です。
 
倉本 中高一貫校などのエリートづくりでは、勝ち組になったら、何が起こるか、考えないといけないと思いますね。良くできる子には二通りがあるわけです。人に教えてあげるやさしいことができる子と、自分よりできない子をバカにし、優越感をもつ子。残念ながら、これが大部分を占めます。
 
 そして、いつもエリートだったらいいけれど、優秀な子どもがトップになれなかったら、何が起こるか。これが日野小事件で解明されたわけです。彼は優秀なのに七〇点を取ってヤケクソになってしまう。孤立して引きこもり、最後にあの「酒鬼薔薇」の犯罪を真似るわけですね。少年事件の子どもたちは低学力ではありません。
 
 本当のエリートは、普通の小中高で学び、そのなかから世界のグローバルなところで勝てるようなほんまの力を身につけるんです。あのノーベル賞の田中さんですね。彼は競争でゆがんだような超エリートではなかったわけです。
 
 いま、「子どもがムチヤクチヤになっている、たいへんだ。なんとかしないといかん」という声はものすごく起こつています。だから、真剣に考えている多くの人に大胆に呼び掛けて、教育の輪を拡げていくことが求められていると思います。
 
得丸 日野小事件は京都の教育行政が生んだ一つの典型例でした。定時制の学校をなくしてしまったり募集定員を減らしたり、新設の養護学校が全国でも例を見ない五階建てを建てるというもので、「どうやって避難するのか」と危ぶまれているのが、いまの京都市の教育行政です。今日のお話でも、高知や北海道、あるいは長野の姿勢との違いが子どもたちの問題にも出ているということが明らかになったのではないでしょうか。
(構成・編集/松永ますみ)
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