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エッセー・私と京都
僕がこれから暮らす町、京都へ
     
ゲーレ・クリストフ(京都大学大学院理学研究科)



誕生日に聞いたレコードの中で
 
 
 外で雨が降りしきる中、僕は京都大学北部キャンパスの近くにある進々堂カフェに座っていた。僕はさらにもう一本マイルドセブンに火をつけながら、たった三ケ月前にここにやってきたばかりの僕のような人間が、京都の生活について一体何が書けるだろぅと思った。たいしたものが書けるわけがない。ずいぶん考えた後、僕はいっぱいになった灰皿にタバコの灰を親指で払い落とし、僕が実際にどのようにしてここへ来ることになったかについて話すのがいいだろうと決めた。
 
 京都という名前を僕が初めて聞いたのは、たぶん僕が高枚を卒業した時にドイツのミユンスターにある実家で聞いた、僕の一九歳の誕生日パーティーの直後だ。午前六時ごろ、さっそく誕生日プレゼントにもらったデヴィッド・ボウイのレコード『Loder』をかけると、ボウイは「・・・・spent some night in old Kyoto sleeping on matted gruund・・・(古都京都の畳で数夜を過ごした)」と歌った。もちろん11年前のその時には、いつか僕がそこに住むことになろうとは全く思いもしなかった。だけど、人生がどんな方向に進むかなんて、全く誰にも言えないものだ。
 
清水の舞台からの光景
 
 
 五、六年ほどに前に、僕はドイツ人の友人二人と、数えきれない程の群衆(その多くは日本人の若者だった)と、清水寺への坂を上った。南京で僕たちと共に中国語を勉強している日本人のクラスメートの招待を受けて、僕たちは上海から大阪へ向かうフェリーに乗って、ほぼ二日間カードゲームをしながら関西にやってきたのだった。彼は僕たちに彼とクリスマスを彼の家族が住む大阪で過ごし、新年を京都で迎えるのはどうかと尋ねた。僕らの冬休みのための限られた予算で日本に行けるチャンスに、僕らは喜んで即座に同意した。清水寺へ上る道は、僕たちが思っていたよりも急な坂だった。多くの人たちが同じ道を登る上に、決して少なくない量の日本酒が僕らの静脈をぐるぐる巡っていたものだから、頂上に着くには僕たちが考えていた以上に時間がかかった。とうとう夜中の11時半くらいに、僕たちは木坂でできた清水寺の舞台に立った。
 
 新しい年の第一日日の夜を迎えるべく明かりを灯した京都の息を呑むような光景は、僕たちの心にいつまでも残る強い印象を与えた。僕たちは長い間、ただそこに立ち尽くして、階下に広がる寺へと続く道のきらめく光を見ていた。
 
 しばらくすると、近くから大きな鐘の音が聞こえてきた。若い日本人のカップルの、着物を着た女の子が、僕たちに言った。「Happy New Year! あけましておめでとう!」僕は「Happy New Year! 」、そしてその日本語の意味もわからぬままに「あぎましだおめでおぉ!」と返事をした。
 
 
藤吉研究室へ
 
 
 数年後、ロンドンのインペリアルカレッジでの休憩時間のことだった。「京都の藤吉教授は確かに最も良い写真を撮る人だ。行くにふさわしいところだ」とハンカマーは答えた。ほうれん草の葉緑体において光合成に関わっている細胞膜たんばく質の構造を解析するという実験に明け暮れている間に、僕は博士課程に進むことを熱心に考えていた。もし、博士課程に進むならば、自分の修士論文と同じ分野である極低温電子顕微鏡による細胞膜たんばく質構造解析という道を選ぶことは良い考えのように思えた。そこから話が京都大学の藤吉教授にまで進展し、ハンカマーは僕に、教授に一度尋ねてみるのが良かろうと教えてくれた。
 
 それから数ヵ月後、僕は道に迷いながら何とか京都大学キャンパスの中にある藤吉教授の研究室まで辿り着いた。僕は理学部四階にある教授の研究室に座って、教授が僕に興奮した面持ちで、実験に成功したばかりの、赤血球にある極めて効率よく水を通す膜タンバタの構造解析について説明してくれるのを聞きながら、僕は自分が捜し求めていた場所にやってきたのだ、ということを感じずにはいられなかった。少し後で、京都大学での博士課程に必要な資金をどうするかという問題について話し合ううちに、僕はドイツの教育システムが実に気前のいいものであることを実感した。ドイツの博士課程の学生には概して給料が支払われるので、僕は無邪気に日本の博士課程の学生も同じであろうと考えていたのだった。僕が中国語習得の為に北京に滞在している間に、京都大学における博士課程の財源となる奨学金を見つけることで、教授と僕は一致同意した。
 
 
目がくらむ強い印象
 
 
 二度目に僕が藤吉教授に再会したのは祇園祭だつた。実際には僕は博士課程の財源となるべく文部科学省奨学金の申請について、詳細を話し合うため北京から飛んできたのだった。僕はいいタイミングにやって来たので、教授と彼の研究室のメンバーと祇園祭を見物することができた。カジュアルな、または伝統的な浴衣という服装に身を包んだ何十万人という人々が溢れんばかりに道を歩くその光景に、僕は目がくらみ、頭をガンとやられたような強い印象を受けた。
 
 木でできた鉾はそびえ立ち、笛や太鼓の音が鳴り響いていた。そんな中太くて長いロープで曳かれていたその鉾や、ヨーロッパにはないような独特の建築様式でできた現代のビル、そしてあふれるほどたくさんの顔が僕の五感を興奮させた。僕は、鉾山を彩る複雑なデザインのじゅうたんが、伝統的な祭りに想像していたような生粋の日本のものではないことに気づいて驚いた。それらは日本のものではなく、中国やペルシア、ベルギーのような様々な地域からの傑作ぞろいであることがわかった。
 
 後々、僕は日本について詳しくなるにつれて、伝統的な祇園祭における鉾山の飾り立ては、遠い異国のすばらしい作品をくみこんで、そこに日本の真髄をどういうわけか映し出すのだろうと考えるようになった。他文化が作り上げたものを認め、それを好み、そして日本独自の目的と娯楽のためにそれを使うというのは、まさに日本人の特性なのだろう。少なくとも、あのゴブランを織ったベルギーの職人はびっくりするだろうが、毎年京都の通りに作品が展示されているのを知ってとても喜ぶんじゃないかと僕は思う。
 
 関西国際空港の税関で、数週間前にベルリンの日本大使館から手に入れたばかりの文部科学省奨学金のビザを、僕は自信を持って手渡した。問題なく通過することができた。京都に向かうバスの窓から、大阪地区に立ち並ぶ無数のビルを眺めながら、僕にここに来る決心をさせたロンドンでの休憩時間を思い返さずにはいられなかった。そしてこれから京都でどんな生活が待ち構えているだろうかと思いを巡らした。
 
 進々堂カフェの外はもう暗くなっていた。雨はまだ降り続いている。
 
 これが、僕が京都に来ることになった理由だ。そして今、僕がこの都市で過ごす時間をどう使うかについて考える時だ。


 
(ゲーレ・クリストフ/京都大学大学院理学研究科)
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