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ひろば129 特集
新教育課程がもたらすもの 変わる学校? 変わる子どもたち?

               山崎雄介氏に聞く
           新学習指導要領で学校はどうなる?

                       ◆ 京都光華女子大学短期大学部助教授 山崎雄介氏



 いよいよ新学習指導要領が導入されます。小誌では、この間たびたびその問題点を指摘してきました。ここでは解決の方向を含めて、学校の今後の姿を山崎雄介氏に語っていただきます。



新学習指導要領、いつになく話題に

──今年度から試行され、いよいよ来年度から導入される「新学習指導要領」は、いつになく話題になっているようです。マスコミでは、各新聞が連載にとりくんだり、テレビメディアも主婦向けのワイドショーから夜のニュースショーまで、かなり報道されていました。円周率問題が象徴的にとりあげられる場面が多かったのですが、マスコミの興味は、文部科学省が強力に推し進めようとしている「総合的な学習の時間」より学力低下にあるようで、一般の親たちの関心も同様にそこにあるようです。

 山崎 ご存じとは思いますが、学習指導要領とは、小学校から高校までの教育課程の基準、また教科書検定、入試問題作成の基準として文部科学大臣が告示するものであり、1958年に基本的な枠組が定まって以来、ほぼ10年に一度改訂されています。教育界では改訂のたびに話題になりますが、今回の改訂は、「業界内」にとどまらない、史上最大といってよい反響を呼んで います。
 たとえば、現在放映中の「3年B組金八先生」でも、5日制完全実施による時間不足のなかで行事へのとりくみが弱まることを危惧する教師に対して、校長が「新年度からは授業時数が減って『学力低下』が心配されているのに、『行事は大切だから譲れない』とは何を考えているのか」と決めつける場面があります(余談ですが、今回のシリーズの校長は文部科学省の動向に「敏感」な人物として描かれているので、台詞を注意して聴いているとけっこう参考になります)。  この校長の台詞にある「学力問題」が最大の焦点となって、新学習指導要領が話題になっているわけです。

果たして大学生の学力は「低下」しているか

──もともと学力が低下しているのに、さらに低下させるのかという意見がかなり聞かれました。しかし、一口に学力低下といっても、何がどう低下しているのか、それはなぜ? という分析がないと、少子化対策に頭を悩ます学習塾の福音になっただけ、という結果にならないともかぎりません。

 山崎 この「学力問題」ですが、これについては、「○○ができない大学生 (大学院生)」といった本の題名や、「これからは公立学校では学力はつかない」といった塾の宣伝広告など、ややもすると扇動的なキャッチフレ ーズのみがクローズアップされ、保護者や市民の不安をいたずらに募らせている面がなきにしもあらずです。そこで、ここでは少していねいに今日 の「学力問題」を整理してみましょう。
 ここでは、現在の「学力論議」をリードしている『分数ができない大学生』(東洋経済新報社)などの著者 グループ(いわゆる一流大学の教員が中心)に代表される、「過去の大学生に比べて現在の大学生の学力は低下している」という議論をとりあげます。
 彼らの論点は多岐にわたりますが、主要には、(1)1977〜78年の改訂以降 、学習指導要領の内容は改訂ごとに削減されてきており、「ここまでが高校までで習っているはず」という大学教員の期待と学生の実情との間のギャップが拡大してきている、(2)小学校〜高校程度の算数・数学の試験を課したところ、「一流大学」でも、とくに入試で数学を課されなかった学生は成績が悪い、(3)授業でわからない部分があった場合、かつての大学生は自分で調べるなりしたものだが、いまは教員への依存傾向(わかるように教えろ、という傾向)が強い、といったことが問題視されています。
 まず、(1)については、「習っていないことを知らない」のはある意味で当然であり、「それならば削られた内容を復活させればよい」という話にもなりかねません。しかし、(2)について少したちいって考えてみると、話はそう単純ではありません。
 強調しておかなければならないのは、前掲書など一連の調査の結果をみるかぎり、「分数(小数)ができない」というフレーズで想像されるような、小学校レベルの算数さえおぼつかない学生が、しかも大量にいるとは判断できないということです。その意味で、著者たちの世間へのアピールにはいささか誇張があります。だからこそ注目を集め得たわけで、「宣伝下手」な教育学者としては、ある意味で見習うべきなのかもしれませんが(笑い)。  それをおくとしても、対象となった大学、というよりはそれらの大学に合格可能な高校の入学難易度を考えれば、成績の悪かった学生たちが、はじめから分数なり小数なりができなかったと考えるのは非現実的です。

学習意欲の衰退が問題!

──すると大学生の学力問題からみえてくるのは、「学力低下」問題といより、別の病根があるということですね。

 山崎 つまり、調査結果を正確に表現するなら、問題は「学力低下」というよりは「学力の剥落(いったんは身についた学力が後に失われること)」であるということです。では、なぜそうなるかということと関連して重要になるのが(3)、つまり「学習意欲の低下」という問題です。IEA(国際教育到達度評価学会)の国際的な算数・数学、理科の学力調査の結果などを根拠に、「日本の子どもは点数は取れるがその教科が好きではなく、学習意欲が低い」とよく指摘されます。また、苅谷剛彦氏(東京大学)による、日本の子どもたちの家庭学習の時間が年々減少しているという指摘も、「学習意欲の衰退」をうかがわせるものです。苅谷氏の指摘についていえば、学習時間・意欲の衰退幅の「階層差」という重要な論点があるのですが、ここでは割愛します。  大学生の「学力低下」という指摘に対しては、たとえば国立大学協会が、センター入試の「5教科7科目必修」への回帰を主張したりもしていますし、そのこと自体は一概に非難できないでしょう。しかし「入試圧力に支えられた学習意欲」は大学合格によって燃え尽きてしまうことは、すでに第14期中教審の「審議経過報告」(1990年)によって──執筆者の西尾幹二氏の個性を反映して、いささか強迫的なトーンではありますが──指摘されているとおりです。
最大のポイントは「最低基準」化だ

──こうした「学力低下」の指摘に対して、文部科学省はどのような対応をしてきたのか、あるいは今後していこうとしているのでしょうか。

 山崎 まず、小学校から高校までについて考えてみましょう。個別教科の内容(現行学習指導要領からどう削減されたか)については、本誌でもしばしばとりあげられているので、ここでは、新学習指導要領への移行に際して文部科学省が講じてきた一連の施策、とくに、「学力問題」への「対策」を中心に検討してみましょう。
 まず、最大のポイントとして、義務教育段階の学習指導要領の性格を、これまでの「履修の基準」から、「最低基準」へと転換させた、ということが挙げられます。つまり、「実際に習得できるかどうかはともかく、これだけは全員共通に教えます」というものから、「全員共通にここまで習得してもらい、それができた子どもにはより進んだ内容を提供します」というものへと、学習指導要領の性格が変えられたのです。
 しかし、これについては、大きくは2点、問題点を指摘しなければなりません。  第一に、新学習指導要領に対する各教科の専門家からの批判は、単に量が減ったからけしからん、というものではなく、教科内の内容が相互につながりを欠き、理解が困難になるという質的な難点を強調しています。「最低基準」化は、こうした批判にはいっさい応えていません。
 第二に、寺脇研氏など官僚は「これからは全員が百点」といった甘い台詞を囁きますが、「全員共通の部分をきちんと習得させる」ための具体的な手だてはいっこうに講じられていません。その一方で、次にみるように、「できる子により進んだ内容を教える」ための手だてはさまざまに講じられています。
 すなわち、「最低基準」化とは、先にみた大学生の「学力低下」を声高に叫ぶ人たちのような、エリート・準エリート層の教育水準の低下を恐れる声にもっぱら応えようとするものなのです。

「少人数授業」は「習熟度別編成」への道か

 山崎 とはいえ、これまでの学級システム、すなわち、40人を上限とする、「能力」別編成でない学級において、「できる子」だけに教育内容を上積みすることは実質的には困難です。そこで文部科学省が2001年度からうちだしてきたのが、「少人数授業」です。
 「少人数授業」とは、国語、算数・数学、理科、外国語などの教科で、学級を解体して学級数プラス一程度の学習集団を編成して授業をおこなうというものです。現在おこなわれているTT(ティーム・ティーチング)との違いは、TTがあくまでも「学級」という枠内での個別指導・グループ指導を行う──したがってグループ・個人間に極端な進度差はつくれない──のに対して、「少人数授業」は、グループ間で学習空間そのものを別にすることです。
 「少人数」授業の導入にあたって文部科学省は、「習熟度別編成」も可能であると強調し、あわせて、小学校(4年生以上)・中学校の算数・数学、理科、小学校(同前)の国語、中学校の外国語について、発展学習および基礎・基本の定着用の「指導資料」の作成を開始しています。この資料のなかでも、「習熟度別編成」についての方針が提起される予定です。つまり、こうした形で、「できる子」については教育内容を「青天井」にしていこうとしているわけです。
 もっとも、現在のところ、とくに小学校では実際に「習熟度別編成」をおこなっているところはかならずしも多くありませんが、後に述べる学校の「自己点検・自己評価」や「全国的・総合的な学力調査」との関連で、「習熟度別編成」の実施にむけて有形無形の圧力がかかることが予想されます。

「少人数授業」は「少人数学級」ではない──大切なのは「学びあうこと」

──もっぱら学力問題への対応として「少人数授業」という考えが出てきたことはわかりました。しかも、形をかえたエリート教育の道を開くものであることも見えてきました。いわば、いま京都の府立高校のなかでおこなわれているような、一つの学校のなかに、エリート養成コース、準エリート養成コース、普通の人生コースがあるといった状態もありうるということでしょうか。

 山崎 この「少人数授業」については、「わかるまで教えてもらえる」との宣伝文句の効果もあって、保護者のなかには期待をかけておられる方々も多いようです。たしかに、40人に近いような学級で、すべての授業で一人ひとりに目を届かせることが困難なのは事実です。  しかし、この問題を解決する方策として、「少人数学級」にするのか、学級を解体した「少人数授業」にするのかでは、大きな違いがあります。

 というのは、一つには、学校ではいわゆる「知育」だけがおこなわれているわけではなく、学級での、あるいは学年・学校単位での自治的なとりくみや行事を通じて、子どもたちの「人格の完成」(教育基本法第一条)にむけた教育がおこなわれているからです。この面からみた場合、たとえば2教科程度で「少人数授業」をおこなうことによって、総授業時数の3分の1前後が学級以外での授業になる(「総合的な学習の時間」などを計算に入れれば、この時数はさらに増えます)ことが、子どもたちの自治的能力や社会性の発達に対 してどのように影響するのか、きわめて心配です。
 もちろん、学校教育においては、学級が唯一の集団というわけではありませんし、クラブ・部活なども含めた多様な集団が相乗的に教育効果をあげてもいます。とはいえ、たとえば京都教職員組合が編んだパンフレット『学力をつけるために 新学習指導要領のいいなりではたいへんだ』(01年10月)でもすでに報告されているように、「少人数授業」の導入によって教室の机が安定した「居場所」でなくなることが子どもたちにもたらしているストレスは、小さなものではありません。
 さらに、授業でつけられる学力の「質」を問題にした場合、「習熟度別」のグループ編成がはたして本当に効果的なのかも疑問です。というのは、これも右の京教組パンフで指摘されていることですが、授業においては、子どもたち同士の教えあいや、ほかの子どもの発言が、想像以上に「力」になっています。また、文章教材の読みとりや社会問題、自然の事象についての討論においては、子どもたちの意見の背後にある多様な生活の文脈が交流されることが、文字面だけの暗記的知識ではない、たしかな理解につながります。それは決して、「できない子」が「できる子」から学ぶという一方的な関係ではなく、まさに互いに「学びあう」という関係です 。
 こうした視点からみれば、「習熟度別少人数授業」は、文部科学省自身が非難してきたはずの「暗記学力」「受験学力」を短時間で詰めこむためには「効率的」かもしれませんが、それが現在の「学力問題」──とくに「学力の剥落」や「学習意欲の喪失」──を解決するかは、いちじるしく疑わしいといわざるを得ません。

学校ぐるみで競争させる「全国的・総合的な学力調査」と「学校の自己点検・自己評価」

──「全国的・総合的な学力調査」が今年度からはじまります。文部科学省のねらいはなにでしょうか。

山崎 より大がかりな「学力問題」への「対策」としては、2000年12月の教育課程審議会答申で提案され、今年から実施される「全国的・総合的な学力調査」と、学校の「自己点検・自己評価」があります。前者は、これまでの「教育課程実施状況調査」が単発的なものだったのに対し、継時的な比較が可能なように、また通常のペーパーテストで測れる「学力」だけでなく、応用力、「自ら学ぶ(考える)力」なども測れるように改善された調査を、計測的におこなっていくというものです。
 もちろん、時どきの学習指導要領を検証し、それを教育の改善に役立てていくこと自身は、文部科学省が自らの責任としておこなうべきことです。しかし、あわせて提案されている「学校の自己点検・自己評価」とこれが安易に連動 すると、たいへんなことになります。
 実際、教課審答申では、学校が年度ごとに点検・評価して地域住民に説明すべき項目のなかに、「全国的・総合的な学力調査と自校との比較」などを含めています。つまり文部科学省は、「全国的・総合的な学力調査」を介して、地域の学校間の「学力水準」が比較できるようにし、これといった条件整備をしないまま、競争圧力によって個々の学校の責任で「学力低下」を防止させることをもくろんでいるわけです。
 しかし、日本の教育界はすでに、「学テ」、すなわち高度経済成長を支える人材の発掘・育成を旗印に1960年代の一時期におこなわれた学力テスト(中学生対象)が、県の威信がこの成績にかかっているというので、一部自治体での組織的な不正を生み出し、数年で廃止においこまれたという経験をもっています。それに、そもそも教育活動の評価は、結果としての点数の高低よりは、子どもたちがどういう課題をもっており、それとの関係で教育活動がどういう成果を挙げたのかという観点でおこなわれるべきものです。
 その意味でも、文部科学省のこの提案は問題です。

どう対処すべきか

──結局、いまふうの「構造改革」の競争主義にもどりました。競争させて、一点突破的に問題を解決させようとする一連の「改革」の特徴が出ていますね。現在の学校教育に、たとえば先程の「学習意欲の衰退」のような、改革を要することはたくさんあります。子どものための「改革」の方向を探りたいものです。

 山崎 このようにみてくると、この間、文部科学省が提案してきた施策を「素直に」実行するならば、「リストラ」をちらつかせて社員を締めあげる企業さながらに、学校が非常にギスギスしたものになってしまいかねません。
 しかし一方、近年の「教育改革」のなかで、学校を地域住民・保護者に「開く」ということを文部科学省自身が進めざるをえなくもなってきています。その意味では、これまで述べてきたような一連の問題点を意識しながら、教師や保護者がそれぞれの立場から自分の学校の教育活動を点検し、声をあげていくことは必要でもあり、有効だと思います。
 たとえば、「総合的な学習の時間」が、子どもの現状とかみあったものになっているのか、文部科学省の例示した「情報(コンピュータ)」「国際理解(英会話)」といった、性急な「経済的要請」に引きずられているのか。
 教科の授業が、「総合的な学習の時間」とも連携しながら、体験や子ども自身の生活的文脈と結びついたものになっているのか、「学力調査」対策の詰めこみになっているのか。  「少人数授業」が、学力の質や学級集団づくりへの影響なども勘案して効果的に導入されているか、「自己点検・自己評価」に「指導体制の工夫」を記入するためや、教師の持ち時間の辻褄あわせのために濫用されているのか。
 とくに保護者のみなさんには、声高な「学力低下」キャンペーンに浮き足立って子どもの尻をたたくのではなく、右のようなポイントについてチェックし、疑問があれば率直に学校にぶつけていただくことを訴えたいと思います。 (やまざきゆうすけ/構成・矢田智子)

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