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【特集「『仁義なき』学校現場──教育の競争主義を問う」】
小学校教師による座談会

なんと、ため息ばかりの研究発表か…。

飯田恵・上野昌枝・北本よね子・榊原豊

司会:ひろば編集部

 熱心な教育活動とは、どういうものなのでしょうか。学校は競い合うようにして授業発表をおこなっています。なかには発表そのものが目的かと思えるようなものも……。

自主という押しつけ

 上野 教師が校内で実践研究し、他の学校の教師にもその成果をみてもらう、研究発表がとても増えています。京都市内では、今年度だいたい五分の三の小・中学校が何らかの形で発表校になっています。でも、その実態は、教師たちが研究を積み重ねて、それでやらせてほしいというより、教育委員会なり校長会の意向で決まるというのが圧倒的ですね。
 司会 研究指定校だとか、研究発表とか、自主発表とかいろいろな言い方がされていますが。
 上野 そこがいろいろあって複雑なのですが、「研究指定」というのは、文部科学省がテーマを指定してきて、それを研究して発表する。「研究発表」とは学校が独自のテーマで発表する、その調整を校長会や教育委員会がする。「自主発表」というのは建前上は学校がまったく独自におこなう研究発表。いま言った順番に、「公」の度合いがうすくなると考えていいと思います。
 飯田 学校にはそれぞれ固有の問題があって、いま、外向けに研究発表をする条件がないと思われるときもあります。知人が勤めていた日野小学校では、あの痛ましい事件の翌年でも、校長が「ああいう事件に負けずに、がんばっている姿を見せたい」と言って自主発表をしたそうです。自主発表と言っても、教師たちが自主的にするのとは違います。だた校長が「やります」と手を挙げたという意味の自主なのです。知人は、事件の翌年で、まだ心の傷が癒えていない子どももいて、しっかり子どもたちに目を向けた学級づくり、学校づくりをと思っていたけれど、研究発表の準備が中心の1年になってしまったと言っていました。
 上野 本当に自主的であったらいいのです。1年2年と研究を積み重ねて、それを他校の教師に検討してもらうというのであれば、実のあるものになる。でも「発表」することが最初に決まっていて、それから「何をやりましょうか?」では、何のための研究なのか。そんなふうな泥縄ですから、私が見学した学校では、学年で意思統一すらできていない発表でした。京都には、他府県の教師がおおぜい研修先に選んでくるのですが、中身のないものを見せられて、あれでは報告にも困るのではないかと思ったこともありました。
 司会 それでもするというのは?
 上野 やったという事実だけが残る。
 飯田 校内の研究会であったら、「こうしたらどうだろう、ああしたらどうだろう」と同僚たちと話し合いながら授業をつくっていけます。同僚たちとの話し合いを重ねて、子どもの見方が深まったり、授業の仕方が勉強できたり、発表の後で意見を聞いたりできます。ほかの教師も子どもの理解が進んだりします。ところが外向けの研究発表はちがいます。これは私の場合ですが、とにかく指導案づくりに忙殺される。「何日までにこれをしなさい、何日までにこれを」とせかされて。で、当日発表して終わりです。授業を見て、校内で意見交換することもありません。ですから、ほかの学年が実際にどういう発表をしたのかさえわかりません。やりっぱなしです。
 上野 研究成果が子どもに全然返らない。たとえば、研究授業を見て、こうしたらあの子は答えられたのではないかとか、あの子はわかっていないようだとか指摘する機会があれば、発表の成果が子どもにもすぐ返る。
 司会 しかし、なぜそういう発表のための発表のようなことを校長はしたがるのでしょうか。
 榊原 教育委員会はとにかく「特色ある学校づくり」で校長たちをしめあげています。そうすると、研究発表を外向きに大々的にすることが「特色ある学校づくり」だと受け止めるのでしょう。あそこがやるなら自分のところもしないと置いてけぼりを喰らう、もっと言えば「教育改革」に不熱心と思われてしまう。そういう強迫観念があるのかもしれません。

もの言えば唇寒し

 榊原 以前勤めていた学校で経験したことですが、そこでは、校長中心の学校づくりというのが強力に進められていました。たとえば、職員会議では議論をさせない、誰かが意見を言うと必ず校長が口を挟んでくる。議論すれば校長の趣旨と違った方向になる可能性があるので、その前に結論や方向を示してしまうのです。だから、だんだん意見を言う先生がいなくなる。素朴な疑問ですら、出ないような雰囲気になっていきました。
 ここでは、2年続けてある教科の研究指定校となりました。僕らは、研究そのものを嫌がっているわけではないのです。しかし、今年は研究発表するより、地道に基礎の力をつけてやりたいとか、生活面の指導に力を入れたいとか、目の前にいる子どもの条件や様子から考える。それで3年目は、なんとか研究指定校になるのを免れたのですが、次の年には、人事異動で「研究発表」に熱心で手慣れた教師を連れてきて、研究校に「復活」しました。その翌年もそういう教師を連れてきました。もうそうなると、校長と彼らの話し合いだけで実質進められていきます。研究冊子も、カラー刷りの非常に見た目のいいのができました。でも、僕らの汗や議論のあとのない、一般の教師にはどこか他人事のようなものでした。
 北本 いま、うちはその研究発表の準備で忙殺されています。今回は、市内の4校が合同で、11月に生活科の全国大会で発表することになっています。校内の研究会、4校の連絡会、学年会、それから学年と研究企画委員会と話し合い、そして指導計画の原稿締切があり、たいへん忙しい夏休みでした。プール当番を入れて半分以上は出勤したでしょうか。
 司会 研究企画委員会というのは校内の?
 北本 そうです。メンバーは校長、教頭、研究主任、生活科、総合的な学習の時間の主任です。学年ごと学校ごとに「子どもの実態に合わせて進めたい」と思っても、四校合同でするのでどうしても足並みがそろわない。指導案が差し戻しされてきて、また学年で話し合う、そんなことが繰り返されています。
 榊原 いろいろな人が、それは校長だったり、教頭だったりですが、いろんなことを言ってきて、こちらが最初に計画した研究発表とはぜんぜん違うものになっていく。自分たちの自主的な部分がまったく尊重されない。
 上野 子どものことがどこかにいってしまうのですよ。本来ならば、授業計画をたてて授業をして、この目標はどうだったのだろうかとか、この展開はどうだったんだろうかといって計画を見直していくものでしょう。
  以前、校長が勝手に研究発表の日程を決めて、それが本人から聞かされるのでなく、よそから聞こえてきて、びっくりさせられたことがありました。そのときは職員間で徹底的に論議をして、子どもの実態に即した、子どもたちに研究成果が返されるようなものにつくっていきました。校長にとってはほかの学校との関係で、とにかく「やる」ことが大事だったから、内容は現場ペースで進められました。
 司会 校長の競争意識ですか?
 北本 うちの学校のように合同発表ですと、校長はよそより少しでも見劣りしたらアカンと、競争を意識しているかもしれませんね。でも、中にいる人間には競わされているかはわからない。そう言われてみれば、職員作業で普段はしないようなところまで掃除をしたり、何度も何度も原稿の書き直しさせられたり、これらもその一つの現れかもしれませんね。

子どものための教育活動か?

 司会 発表の準備で普段の授業に支障は?
 北本 現場の教師は自分のクラスのことをしないことにはどうにもならないから、発表の準備は準備でしますが、子どもたちをほったらかしにはしていません。でも正直に言うと、どうしても準備のための時間が足りなくて、算数や国語を突然それに振り替えることはあります。もちろん年間の学習計画にはない授業の振り替えですよ。「今日は一日“総合的な学習”をするよ」というように……。ただ幸いにも、うちの学校には、荒れた学級もないし、子どもたちも落ち着いているので助かっています。
 飯田 逆に言えば、教師の犠牲の上に成り立っているのですよ。北本さんたちのがんばりの結果ではないですか。
 北本 今年は移行措置で66時間あいた時間がありますから、それを全部「総合」に使うなどして、115時間分確保しました。それでも足りないので、先ほど言ったように、超スピードで算数を進めるなどしています。一番はしょられるのは音楽や図工ですね。
 榊原 学習障害の子がいる、教室を飛び出す子がいる、生活面でしんどい部分を抱えた子がいる……、手をかけ目をかけてやらなければならない子が何人もいる。そういう実態をテーマにした、あるいはどこかに関連性のある内容ならよいのですが、まったく関係ない内容の研究発表では、本当にジレンマに陥ります。

教師の消耗戦

 司会 教育の形式化、形骸化とでもいうのでしょうか。
 北本 たしかにそうですね。研究も、少々無理をしてもこれをやったら、「教師の力もつくし、子どものためになる」というものであればやり甲斐もあるのですが、みんなそう思っていないようです。早くすめばいいと指折り数えて過ごしている、あと何か月の辛抱という具合に。
 司会 喜びではない?
 北本 研究発表が終わった後に「ご苦労さん会します」と参加を呼びかけられても、「ちょっと堪忍して」という感じです。というのは「みんなでがんばった! やった!」という気持ちがもてない。「3月までがんばって、来年は学校を異動したい」「来年もしたんでは体がもたない」などと同僚たちと言い合いながら帰るのです。
 上野 子どものためになるのなら、教師はがんばりますよ。でも、やっていてそういう手応えが感じられない。何のために夜遅くまで机に向かうのか。そうした消耗戦の結果、定年前にやめていく教師が、今増えているのですよ。自分の子育ての時期も必死で勤めてきた教師が、50代になって辞めていく。年金が出るようになるまで、まだずいぶんあるけれど、そうしたことには代えられない。
 飯田 それとくらべて、校長は最後まで勤めきりますよね。
 北本 定年後も図書館関係とか、児童館関係とか、そういう社会教育関係の仕事に就く校長先生は多い。高校であれば、私立の校長ポストもあります。
 司会 いわゆる天下りですか? でも教育委員会に睨まれたら、そういうポストは世話してもらえませんよね。
 上野 昔は最後の年くらいは、子どもや職員の方を向いて学校運営する校長もいましたが、いまは定年後を考えて、どうしたって教育委員会での評価は落としたくないという気持ちが働くのかもしれませんね。

(座談会参加者は仮名/構成・文:矢田智子)
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