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126号
【特集「解読『総合的な学習の時間』──実践にあたって考えたいこと」】

Q&Aで整理する
これだけは考えておきたい「総合的な学習の時間」

京都光華女子大学短期大学部教授

山崎雄介



 新年度を迎え、いよいよ「総合的な学習の時間」の試行が本格的になってきました。各学校でいままでおこなってきた教育実践を位置づけて、それをもとにしたカリキュラムづくりが始まっています。いま一度、問題を整理する視点を考えたいと思います。

1 道徳的な「ねらい」にひきずられない

 今回の学習指導要領改訂の「目玉」といわれる「総合的な学習の時間」(以下「時間」と略)は、どういうねらいで設定されたのですか?

 「時間」のねらいとしては、子どもが身につけるべき能力・資質の面から、また学習内容の面から整理することができます。
 まず能力・資質面では、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え」る能力・態度と、「自己の生き方を考えること」がねらいになっています。要するに、現在のいわゆる「受験優等生」に欠けている、とされる問題解決能力、独創性、主体性といった資質を育成するとともに、「生き方」を云々することによって道徳的な資質も育てようということです。
 また内容面では、小・中では、「国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題」「児童(生徒)の興味・関心にもとづく課題」「地域や学校の特色に応じた課題」など、高では「〜横断的・総合的な課題」「生徒が興味・関心・進路等に応じて設定した課題について、知識や技能の深化、総合化を図る学習活動」「自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動」が、あくまで「例示」ですが、学習指導要領にあげられています。
 まず「横断的・総合的課題」は、現在の政財界で「重要課題」とされている「国際理解」(事実上は英会話)、「情報」といった内容について子どもたちに一定の力量を形成すること、あるいは逆に国としては責任をもたず、国民に負担を丸投げすることをもくろんでいる「福祉・健康」といったテーマについて、それなりの「対応能力」(「お上に頼らず、自分でやる」という意味の)を身につけさせることをもくろんでいるものと思われます。
 また、「興味・関心に応じた課題」という、いわゆる「自由研究型」については、すべての子どもに効果を期待するというよりは、比較的優秀な子どもについて、受験優等生型でない「独創性」「問題解決能力」の育成をもくろんでいるものとみられます。さらに、とくに高校では、「自己の在り方生き方や進路について考察する学習活動」で、進路選択との結合も意図されています。

2 従来の「総合学習」と「総合的な学習の時間」は似て非なるものである

 「総合学習」と「時間」とは、どうちがうのですか?

 「総合学習」と一般的にいった場合、歴史的にも100年以上の流れがあり、また地域的にも世界的な広がりがあるのですが、ここでは戦後日本の民間教育研究運動で提唱されてきたそれに限定します。
 この場合、学習指導要領や教科書の単元構成などに縛られずに、また、子どもたち自身による調査や発表などを重視して学習を展開するといった点は共通しているといえなくもありません。しかし、最大の違いは、学習課題がどのような視角で設定されるのか、誰にとって切実な問題なのか、ということです。
 たとえば、よく引き合いに出される日本教職員組合の「教育課程改革試案」(1976年)では、「未来の主権者たる子ども・青年たちの成長に不可欠な国民的諸課題」、たとえば生命と健康、人権、生産と労働、平和と国際連帯などが内容とされています。ここでは子どもたちは、将来の日本社会そのもののあり方やその進路を自ら決める主体として成長しつつある存在とされています。そのため、例示された課題での学習を通じて、社会を批判的にみる眼を育てることがめざされるわけです。
 これに対して「時間」では、現在の政財界のめざす方向が「社会の変化」として無批判に前提とされ、それへの適応ということにのみ限定された「主体性」が子どもに求められます。また、とくに研究開発学校を中心とした小学校で「英会話」「情報」への学習課題のワンパターン化が進行していることに象徴されるように、いささか近視眼的な「経済的要請」のみが突出しており、「子どもの成長にとってその学習課題が適切か」という視点がみごとなまでに欠落しています。


3 教科学習の発展、体験的な裏づけとして「時間」の組みたてを考える

 学力低下が社会問題となっていますが、「時間」との関係はあるのでしょうか?

 教育実践の構造からして、「時間」の影響だけを取り出して、これが学力の向上をもたらすのか低下をもたらすのかということを云々するのは生産的ではないでしょう。
 とはいえ、今回の学習指導要領は、既存教科の時数・内容減を伴っており、放っておけば深刻な学力低下をもたらしかねないのも事実です。したがって、そこをどうカバーするかということを抜きにした「時間」の内容づくりが危険であるとはいえます。
 この1月に、小野元之文部次官が『読売新聞』のインタビューで「(『時間』は)複数の教科にまたがり、その学習を総合する時間だ」「体験学習は大事だが、そればかりではなく、教科との関連性も考えてほしい」と発言したところ、各自治体の教委から文部科学省に「方針が変わったのか」という問合せが殺到したため、同省から次官発言を否定する文書が出されました。そこではあらためて、「『時間』は教科ではない」と強調されたわけですが、しかし、「教科ではない」というのは単に、教科の授業と同じことをやるのが「時間」の趣旨ではない、ということにすぎません。
 たとえば、文部科学省自身が例示する「環境」という課題をとってみても、その学習には社会科、理科、算数・数学などの内容が関連してくるのは明白です。つまり、「教科ではない」からといって、ことさらに教科との関連を否定するのではなく、教科学習の発展として、あるいは体験的な裏づけとして「時間」の組みたてを考えてみることは正当でもあり必要なことです。
 また、一部研究指定校などにあるような、教師の指導性を一切放棄した「自由研究型」は、親の助けなども借りてそれなりの内容を作れる子と、何をしていいかまったくわからず右往左往する子との格差を極端に拡大してしまうことも多く、学力保障という面からは問題ありといわなければなりません。

4 学校全体の教育課程や学年ごとの指導計画の一環として考える

 「時間」についての校内の議論をどのように進めていけばいいでしょうか?

 大前提として、「時間」の内容は、教科や特別活動も含めた学校全体の教育課程や、学年ごとの指導計画の一環として考えるべきだということがあります。それらとまったく切り離して「時間」を考えると、教師・子どもともに過重負担になるような無理のある計画になったり、逆に配当時数を埋めることだけを目的とした細切れのプランの寄せ集めになったりしがちです。自校の子どもたちの現状はどうで、そこにどのような力をつけていきたいのか、具体的なデータ・事実にもとづいて共通認識をもつことが必要です。
 「時間」のねらいのうち、「自ら学び・考える力」「問題解決能力」といった能力・資質については、これまでの教科や行事、自治的な活動の中でも多かれ少なかれ追求されてきているはずです。したがって、たとえば、これまでそれぞれの学校でとりくまれてきた教育活動のうち、体験的な要素を含むものを抽出し、これを軸に、教科などとの関連も考慮しながら「時間」のテーマを設定していくことが有効です。たとえば、大阪市の北恩加島小学校では、既存の教育活動と「時間」との関係を左ページの表のような形で整理しています。
 次に、「時間」のために新たにテーマ設定をする場合のポイントを述べておきます。
 文部省が例示した「国際理解」「情報」などの課題は、確かに現代社会においてそれぞれに重要なものではありますが、それがただちに、小学生なり、中学生にとっての教育課題になるわけではありません。
 文部科学省は、英会話については、『小学校英語活動実践の手引』(まもなく店頭で販売予定)を用意するなどさかんにテコ入れをしています。しかし、「言語習得は早期に始めた方が有効」というのは母語習得やバイリンガル家庭など、実際その言語を用いて生活している場合の話です。したがって、小学校段階では「親しむ」程度のことを目標にした方が現実的でしょう。また、英語の重要性の過度の強調は、非英語圏の人々や文化への偏見にも結びつきかねません。中学校以上ではこの点への配慮も必要でしょう。
 また、「情報」についていえば、「iモード」の隆盛にみられるように、情報機器の主流が現在の形のいわゆる「パソコン」であり続けるかは不透明な面もあります。したがって、学習や表現の手段としてコンピュータを活用したりすることは当然あり得るにしても、パソコンそのものへの習熟は主要な教育内容にはならないでしょう。
 より広く、テーマ学習的なものを構想する場合、さまざまな視点がありえると思いますが、たとえば、村井淳志氏は、現代の子どもたちにとって切実な課題として、「性と死=いのち」「家族」「学校/学歴社会」、そしてそれらに通底する「高度経済成長がもたらした、子どもの不幸・苦悩」というテーマをあげています(グループ・ディダクティカ『学びのためのカリキュラム論』勁草書房)。このように、子どもに考えさせたい、ともに考えてみたいテーマというのは、それぞれの先生がおもちなのではないでしょうか。

5 自己満足的な問題解決学習にはせず、実際にモノや人にふれる学習を

 「時間」ではいわゆる「学び方」学習(調べ学習、問題解決学習)が推奨されていますが、これを実践するうえでの留意点はどのようなものでしょうか。

 子どもたち自身が切実だ、不思議だと思える課題について、図書などの資料で調べたり、人に尋ねたり実験したりして自分たちなりの解決を探る「調べ学習」「問題解決学習」は、これまでにも広く実践されてきており、べつに「時間」の専売特許というわけではありませんし、その重要性は広く認められています。ただ、現在研究指定校などで「時間」と関わって展開されている「学び方」には、いささか問題を感じるところもあります。
 たとえば、子どもたちをグループに分けてそれぞれ自分たちのテーマで調べさせ、結果をグループごとに発表させてまとめる、というパターンが広くみられます。しかしこの場合、子どもたちは、ほかのグループの発表については聞きっぱなしで終わってしまうことがしばしばです。われわれ大人であっても、限られた時間でまとまった内容を他人に伝えたり、逆に他人の話から内容をくみとったりすることはそう簡単ではありません。したがって、グループ(あるいは個人)ごとの調べ学習をおこなう場合、発表を最後ではなく中間においたり、核となるような体験は、全員共通にもたせるなどの工夫が必要でしょう。
 また、調べる過程では、できるだけ実際のものや人にふれることを重視すべき(逆にいえば、それができないようなテーマは調べ学習の課題にしない)です。インターネット検索やディベートなど近年一部でもてはやされている手法は、直接体験が不可能・困難なテーマを調べたり論じたりすることを可能にしてくれるようにも思われますが、それだけに逆に、「総合学習」が克服の対象としていたはずの「コトバ主義」に陥る危険がかえって大きいという面があります。
 また、「問題解決学習」については、自分たちが問題の解決に寄与できる部分と、個人個人の努力の範囲を超える部分とをきちんと認識するということが大切です。近年「時間」の先導的試行で気になるのは、学習が「自分にできることを考えましょう(しましょう)」という「落としどころ」にいきがちなことです。たとえば、キャットフード缶詰の製造工程(タイなどの近海で獲った魚を、現地の女性労働者が低賃金で加工──手作業で──している)を学習した子どもたちが、「問題解決」として「食べ物を大切にする」「エコカードを集めて東南アジアに送る」などを考えて実行した、というある小学校の事例などは象徴的です。
 その場限りで自己満足的な「解決」でなく、次の学年・学校段階に問題意識を引き継ぐという方向での、オープンエンドな解決が望ましいのではないでしょうか。

6 「よくがんばりました」式の主観的な態度評価には一考を

 教育実践に評価はつきものです。「時間」の評価についてはどういう考え方・方法が必要でしょうか。

 昨年12月に公表された教育課程審議会答申で、指導要録の改訂が提言されており、その中では「時間」の評価についてこう述べています。
 「行った『学習活動』を記述した上で、指導の目標や内容に基づいて定めた『観点』を記載し、それらの『観点』のうち、児童生徒の学習状況に顕著な事項がある場合などにその特徴を記載するなど、児童生徒にどのような力が身に付いたかを文章で記述する『評価』の欄を設けることが適当である」また、この場合の「観点」(各学校で定める)の例としては、「課題設定の能力」「問題解決の能力」「学び方、ものの考え方」「学習への主体的、創造的な態度」「自己の生き方」「コミュニケーション能力」「情報活用能力」、あるいは教科の「観点」に準じた「学習活動への関心・意欲・態度」「総合的な思考・判断」「学習活動にかかわる技能・表現」「知識を応用し総合する能力」といったものがあげられています。つまり「評定」はせず、「学校で設定した観点にもとづく文章での評価」となるわけです。
 また、これは「時間」に限ったことではありませんが、今回の教課審答申では、「学習の過程の評価」「自己評価」なども強調されています。
 こうした、学習の過程の評価、あるいは総合的な学習のひとつの評価の手法として、近年、「ポートフォリオ評価」がさかんに紹介されています。これは、学習の過程で作成された子どもの作品(作文・レポート、絵や写真、録音・録画、コンピュータのファイルなど)や、それに対する教師や親、ほかの子どもなど他者のコメントを一定の容れ物に蓄積していき、これを通じてそれぞれの子どもの個性的な学びの姿を浮き彫りにしようとするものです(詳細は田中耕治・西岡加名恵『総合学習とポートフォリオ評価法入門編』日本書籍などをご参照ください)。このときの容れ物を「ポートフォリオ」といい、書類ばさみ・ボックスファイルの類からスーパーの買物かごまで、多様なものが活用されています。
 もちろん、子どもたちの学習の過程の評価については、日本でもこれまでに「ノート指導」「学級通信」「教科通信」などさまざまに工夫がされてきているわけで、なにもポートフォリオ評価が唯一絶対の手法ではありません。「新学力観」が提起された当時、「関心・意欲・態度」を評価するため、さまざまな教科で提出物が急増し、教師も子どももヘトヘトになったという例がしばしばみられましたが、こうなってしまっては本末転倒です。「作品」を残すことを自己目的化させるのではなく、学習の過程で必然的に残されたものを、ていねいにみていくということが必要でしょう。
 また、新指導要録では「時間」の評価について、「よかった点」「伸びた点」を中心にするとしています。評価の教育的機能として「子どもを励ます」ことはもちろん大切ですが、研究指定校などの事例では、それが学習内容との関連抜きに「よくがんばりました」式の主観的な態度評価(あるいは単なる気休め)になっている場合があります。一連の学習内容で子どもが学んだことをきちんと意味づけ、その後の発展の方向性を示すような評価にしていく必要があるでしょう。

(ゃまざきゆうすけ/京都光華女子大学短期大学部教授)
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