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第5章
思春期における道徳性の発達過程と道徳教育実践の課題



楠 凡之
 
はじめに
 
 京都府内の、ある小学校六年生の女の子が拒食症でこの世を去っていった。彼女は本当に「いい子」であった。勉強もよくでき、両親や教師からの期待を一身に担って頑張っていた。クラスの仲間からも心から好かれており、誰一人として彼女の悪口を言う大人も子どももいなかった。
 
 「あんなにいい子」が、なぜ死んでいかなければならなかったのか−!」
 
 最期は見るも無残なほどに痩せ細っていた彼女の死を、誰もが一様に嘆き悲しんだ。一体何が彼女をあんなに悲惨な死に追いやったのであろうか。
 
 みんなからの期待に常に笑顔で答えようとし続けていた彼女の心の中では、いつしか「生きられない自分」がどんどんと大きくなっていったのではないだろうか。そして、ついに「生きられない自分」は、「食事を拒否する」というかたちで、「まわりからの期待を一身に担っている自分」に反逆し始めていく。
 
 しかし、このふたつの「自分」は最期まで統合されることなく分裂し、闘い続けてしまった。そして、「生きられない自分」は、自らの肉体そのものを否定することによって、「まわりからの期待を一身に担っている自分」への、そしてそのような「偽りの自分」を作りあげることを強いてきた社会への復讐をおこなった。しかし、それによって、「生きられない自分」は永遠に生きられることのないままにこの世を去っていかざるを得なかった。
 
 わずか一二歳で死んでいかなければならなかった彼女や、周りの人びとの深い悲しみと苦しみを思うとき、このような勝手な推測をすること自体果たして正しいことなのかどうかと悩んでしまう。しかし、真の意味で「生きる」ことのできないままにこの世を去って行かざるを得なかった彼女のあまりにも悲痛な人生を思う時、せめてこのような悲しみだけは二度と繰り返されてはならないと心から思う。それがゆえに、今一度、次のような「問い」に帰っていく必要があるように思う。
 
 
 「今、子どもたちは本当に『生きて』いるのであろうか。さらに言えば、現代社会の担い手としての大人たち自身が、果たして本当に『生きて』いるのであろうか。」
 
 思春期における道徳教育の最大のテーマ、それは、思春期の子どもたちに、真の意味で「思春期を生きる」自由を保障していくことなのではないだろうか。
 
 現在の社会的、文化的諸条件の中では、多かれ少なかれ、すべての子どもたちの上に何らかの人格発達疎外の問題が生じてくると言っても言いすぎではないであろう。なぜなら、子どもたちにとっての「発達の源泉」は、この矛盾に満ちた社会の中にしか存在していないからである。
 
 現代社会の中で、子どもたちが真の意味で「生きる」ことができなくなってきていること、「いじめ」問題や「登校拒否」問題の深刻化は、そのことを端的に物語っているように思う。
 
 しかし、人間は、現代社会の問題状況によって、一方的に規定され、流されていってしまう存在では決してない。人間は、そのような問題状況によって人格発達疎外を引き起こされつつも、しかし、最も深いところに存在している自己発達のエネルギーと自己成長への願いによって、そのような状況を乗り越えて人格的な成長・発達を遂げていこうとする存在なのである。時には、そのエネルギーや願いがあるがゆえに、かえって悲惨な結末を迎える場合があるとしても・・・・・。
 
 
 子どもたちは、矛盾に満ちた外界とのかかわりの中で時として様々な問題事象を示しつつも、それを克服して、より高い人格的な力量とそれに裏づけられた確かな道徳的価値意識を形成していく存在である。
 
 それゆえ、真の意味で子どもの道徳性の発達を保障していく教育実践は、子どもの中に確固として存在している、そのような根源的な願いや自己発達のエネルギーに対する深い信頼感の上に築かれていかなければならない。もしも、子どもたちの教育に責任を持たねばならない大人たちがそのような信頼感を失ってしまった時には、もはや子どもたちの心の中に、「自己への信頼感」と「未来への希望」を育んでいくことなどとうてい不可能なのではあるまいか。
 
 
本章では、そのような人間観、発達観に立ちつつ、表では、思春期における道徳性の発達過程について検討していきたい。「思春期」という時期をどの範囲とするかは、研究者によってまちまちであるが、ここでは、
(1)思春期前期(11〜2歳頃から13歳頃)と
(2)思春期後期(14歳頃から16〜7歳頃)
の二つの段階に分け、本書で報告された諸実践における、思春期の子どもたちの様々な姿、問題事象の背後にある「発達的な意味」を捉えつつ考察を試みたい。(1)
 
 そして、二節では、道徳教育実践の諸局面について仮説的に提起し、三節では、一節と二節を踏まえて、思春期における道徳教育実践の課題について整理してみたい。
 
 
1 思春期における道徳性の発達過程について
 
 
 l 思春期前期(11〜2歳頃から13歳頃まで)
 
 
−−他者との様々な交わりの中での「相互尊敬の原理」の探求−−
 
 著名な発達心理学者であるピアジェは、二、二歳頃の時期は、具体的操作期から形式的操作期への移行期であり、九、一〇歳頃の、形式的平等を正義と考える段階から、様々な個人の違いを考慮した実質的な平等を正義と考える段階へと移行していく時期であるとしている。(2)
 
 このような道徳性の発達過程は、様々な教科での確かな学力形成の過程と密接に関連しながら展開していくのであり、したがって、「知育」を抜きにした「徳育」は成立し得ないことは言うまでもないことであろう。
 
 しかし、このような道徳性の発達過程は、学力の発達過程と並行して直線的に進行していくものでは決してない。その過程はダイナミックな弁証法的な過程であると、同時に、子どもを取り巻く歴史的、社会的諸状況によって様々な形での屈折や歪みを含んだかたちで展開していくものである。
 
 思春期前期の道徳性の発達過程は、仲間集団ないしは友人関係の質的な変化や、その中での子どもたちの内面的葛藤の中に最も端的に表現されてくるように思われる。
 
 小学校中学年から高学年にかけては、男女間の対立が極めて強くなってくる時期である。お互いに相手に対する激しい自己主張をし合いながら、自らの所属する集団のクラス内部での地位を拡大していこうとし、時には口では歯が立たない男子が暴力をふるう結果にもなっていく。
 
 しかし、このような集団相互の関係の中で、時には排他的とも受けとれるほどの集団的自己主張をおこなっていく中で、子どもたちは自らの「思春期を生きて」いるのであり、そのプロセスを通じて初めて、真の意味で、他の集団の要求をも受け止め、集団相互の関係の中にお互いの願いや、要求を等しく尊重し合う、「相互尊敬の原理」を実現していくことが可能になるのである。
 
 また、この時期、高学年女子の「私的グループ」に見られるように、自らを補完してくれる「等質的な他者」を必要とするがゆえに、友人関係を失うことへの不安感が弱まり、時には「金魚の糞」とも言われるほど、過度に同調的な関係が生み出されていく。しかし、そのような過度に同調的な関係の中では、真の意味では自分自身の願いや感情を「生きる」ことはできない。それゆえ、その関係の中で「生きられない自分」がいじめその他の屈折したかたちで自らを表現し、グループ内外での様々なトラブルを引き起こしていく。
 
 それに加えて、第二次性徴に伴うからだの変化は、自分自身でさえも十分に捉えきれないような苛立ちや不安感となって子どもたちに襲いかかってくる。それがゆえに第二次性徴の早い子どもを集団的にいじめたり、仲間はずれにすることによってその不安感から逃れようとすることもしばしばである。
 
 しかし、いじめた子どもにとってはそのような様々な「発達的な意味」をもつ行為であったとしても、いじめられた子どもの心は大きく傷つき、いじめた相手に対する深い憎しみの感情をも生み出しかねない。
 
 浅井先生の報告(第2章)に登場するS子は「だれだって、いじめられた時のつらさ、悲しさは忘れられない。それを水に流してまた仲良くしようなんて、あまりにも都合が良すぎるんじゃないですか!」と、「目には目を!」の相殺論に依拠しっつ浅井先生に抗議している。いじめられた時に受けた心の傷は、いじめた相手を同じだけ傷つけるという「相互性」によってしか癒されないほど深いものなのである。まだ幼く見える子どもたちではあってもその世界の中で様々な葛藤に悩み、苦しみながら、しかし、その仲間の世界を「ともに生きて」いるのである。
 
 この時期、仲間集団の中に「居場所」を築きあげることができず、「我々意識」を共有できない子どもたち、あるいは、様々な活動や仲間集団の中で、自分自身を「生きられない」子どもたちの苦悩や叫びが、時には、「登校拒否」や拒食症などの症状となって表現されてくる。われわれは、そのような症状のかたちでしか訴えられない子どもたちの中にある「生きられない自分」の叫びを読み取っていける心を失ってはならないのではないだろうか。
 
 しかし、このような様々なトラブルや葛藤は、子どもたちを人格発達疎外の状況に追い込んでいく危険性を持ちつつも、同時に、そのような様々な葛藤のなかでこそ、子どもたちは真の意味での友情とは何かを学び、この時期に固有の道徳的価値意識を自らのものとしていくという視点を見失ってはならない。
 
 同報告に登場するT子は、Aグル−プの「いじめ行動」に同調せず、正しいことを主張したばかりにいじめられる立場に立たされてしまう。しかし、そういう立場に追い込まれながらも、日記の中で、浅井先生に次のように語つている。
 
 「ケンカ別れをして、一人になって、一人になったさびしさ、心ぼそさというのがよくわかる。そして、その時、はじめて友達の大切さというのがわかってくる。」
 
 いじめられ、仲間はずれにされても、相手に恨みを抱くのではなく、そこから「友達の大切さ」という普遍的な真理を、浅井先生との信頼関係を支えにしながらT子は学び取っていったのである。
 
 このT子への「いじめ」問題を解決していく過程で、クラスの中に、「仲間はずれやいじめを出さないために、クラスで守らなければならないこと」は何なのかが真剣に話し合われ、「一人ひとりが仲間としてお互いを大切にし合わなければならない」という「相互尊敬の原理」がクラス集団の中で確認されていく。しかも、このようなクラス集団での取り組みのプロセスは、子どもたちの心の表面を素通りしていくようなものでは決してなく、一人ひとりの子どもたちの内面に、激しい葛藤と決意を引き起こすものでもあった。G子は日記に次のように綴っている。
 
 「私はなさけない! T子さんがいじめられているのを知っていたのに、何も言ってあげられなかった。本当になさけない。(中略)わたしはこれからどんどんいじめられている人を助けよう! こんどからぜったい、見てみないふりをしません。みんなにちかいます。信じてください。」
 
 こうして、思春期前期の世界を「ともに生きていく」中で、様々な違いを乗り越えて、一人ひとりが真に大切にされるような仲間関係を築いていくことに対する確かな価値意識が、浅井先生のクラスの一人ひとりの子どもたちの心の中に青くまれていく。
 
 しかし、自分自身をありのままに見つめることは決して容易なことではない。S子自身が紆余曲折を経つつも、自らのいじめの事実をありのままに振り返っていけるようになるまでには、さらに半年の年月が必要であった。仲間集団の中で、それだけの試行錯誤のプロセスを「生きぬいていく」自由が保障されることによって初めて、彼女は友情と連帯に関する決して崩れることのない道徳的価値意識を自らのものにしていったのである。
 
 また、この思春期前期という時期は、対大人との関係においてもこの時期に固有の変化が生じてくる時期である。
 
 青笹先生のクラスの植田君は、次のような詩を綴っている。(第1章)
 
 「先生が歩いているとこ まだはるか先や そやけど、先生 歩くのおそくなってきた。ぼく、まだはやい。先生、いっしょうけんめい歩いてや それでもおいぬかしたる。ぜったい おいぬかしたる。知識も 技術も みんなおいぬかしたる ぜったいに」
 
 思春期前期の子どもたちの「甘えを伴った反抗」は、大人に依存したかたちでしか大人から自立していけないという矛盾した内面の表現でもある。思春期に入り始めた植田君は、青笹先生の胸に思いっきりぶつかりながら、そこを支えとして自らを成長させていこうとしていたのではあるまいか。
 
 また、思春期前期になると、自分の中に起こってくる様々な変化を十分に受容しきれない苛立ちが、依存対象としての大人にぶつけられてくる場合もしばしばである。
 
 たとえば、それまで若い男性教師に対して「先生、先生!」と言って甘えていた少女が、生理の始まりを契機にして突然、「○○さんばかりを見ていて、イヤラシイ! 不潔! 短足! スケベー! 死ね!」という手紙を書いてきたりもする。父親に対しても、「不潔!」と言ってからだにちょっと触れられることさえかたくなに拒否してしまう。しかし、その背後には、異性としての意識の芽生えと、「甘えたいけれども甘えられない、甘えたいけど甘えさせてもらえない」いう屈折した感情が存在しているように思われる。だから、子どもが拒否するからといって、父親や教師に放っておかれるととても悲しい思いを味わうのもこの頃の少女たちなのである。
 
 しかし、このようにして、自分自身でさえ十分に気づききれていない不安や葛藤を、身近な大人との関係の中で思いっきり表現し、確かな手応えを返してもらうことによって、この時期の子どもたちは、心の中に、自分をしっかりと支え励ましてくれる「内なる他者」をもう一度築きあげていくのである。
 
 それゆえ、思春期に入り始めた子どもたちが安心してぶつかれる大人の存在は極めて重要である。この時期、もぅ一度自分の心の中の、自分を支え、励ましてくれる大人の存在を確かめながら、子どもたちは、思春期後期における「価値的な自立」に向けて旅立っていくのである。
 
 このように、仲間集団の中で、そして、身近な大人との関係の中で、真に自分自身を生きぬいていくことによって、思春期前期の子どもたちは、心の中に自らを支え、励ましてくれる「内なる他者」を築きあげ、「自分自身」への、さらには「未来」への確かな信頼感を抱きつつ、価値的な自立の旅路に出発していく。
 
 しかも、その際には、身近な集団の中で築かれた「相互尊敬の原理」をさらに普遍化していくことを通じて、「社会の中のすべての人びとが、その様々な違いを越えて、かけがえのない個として尊重されなければならない」という道徳的価値が、適切な教育的援助によって、子どもたちの主体的な価値選択の一番根底にある基準として自己の中に深く取り入れられていくのである。
 
 
 2 思春期後期(14歳頃から16〜7歳頃まで)
 
−−社会的自立モデル(4)」との出会いを通しての未来像の模索−−
 
 現在の日本の学校では中学二、三年生の時期にあたる一四、五歳の時期は、自らのアイデンティティ、存在意味の獲得に向けての模索が始まる時期とされている。たとえば、ノーマン・ブルはこの時期を「自我理想」の発達し始める時期としている。(ノーマン・J・ブル著森岡卓也訳『子どもの発達段階と道徳教育』明治図書、一九七七年)
 
 急激に変化していく現代社会は、自分の親の現在が自らの未来にならない時代でもある。思春期前期において、友人や身近な大人との関係を通して築かれた「内なる他者」を心の拠りどころとしながら、子どもたちは、この時期に誕生してくる新しい発達のエネルギーによって、両親や教師などの身近な大人との関係から飛び出し、社会の中に多様なかたちで存在している、自らの生き方の指針となるような「社会的自立モデル」を追い求め、それらを主体的に、しかも、「取り入れては捨てる」というような、試行錯誤のプロセスを繰り返しながら自分なりの「自我理想」を心の中に築きあげていく。言い換えれば、多様なかたちで自らの生き方を模索しながら、身近な大人からの「価値的な自立」を図っていくのである。
 
 しかし、テスト業者の算出する「偏差値」が進路指導に定着し、自らの未来が、「偏差値」という「外側の尺度」によって大幅に規定され、閉塞させられていく中で、思春期の子どもたちが自分自身で作り上げた「内なる尺度」に頼りながら、価値的な模索のプロセス、自分自身の生き方の模索のプロセスを展開していくことは極めて困難になりつつある。また、身近なところでの「労働」が見えなくなっていく中で、自らの生き方への問いかけそのものが極めて抽象化されたものにならざるを得なくなってきている。
 
 しかし、そのような困難な状況にもかかわらず、この時期には、「価値的な自立」に向けての新しい発達のエネルギーが誕生してくる。そして、そのエネルギーに依拠しっつ、子どもたちは、他者からの借りものではない、自分自身の生き方を模索していかざるを得ない。たとえ、それが時には、絶望的で、自己破壊的な試みでしかないとしても・・・・・。
 
 
とにかくもう 学校や家には帰りたくない 自分の存在が何なのかさえ解らずに震えている一五の夜
盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま 暗い夜の帳のなかへ
誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした一五の夜
 
(尾崎 豊「一五の夜」より抜粋)
 
 
 「行き先」も見えないままに、その新しく芽生えてきたエネルギーをバイクに向けるしかない子どもたち、あるいは社会的な束縛の象徴でもある「校則」に違反するツッパリファッションの中に、自らの「価値的な自立」の拠点を求めようとする子どもたち。つかの間のセックスの世界に、日常生活の中では求めえない「愛」というかけがえのない「価値」を、真に人間らしい生き方を模索しようとする少女たち。
 
 このような問題行動は、時には「死」に至りかねないような、自己破壊的、破滅的な要素を含んでいる。しかし、表面的にはどれほど否定的なものであるとしても、それらの現象は「自らの存在意味」を求めて「行き先もわからないまま」未来に向かって飛び出して行かざるを得ない発達のエネルギー、矛盾に満ちた社会的な束縛からの「自己の解放」を求めていかざるを得ない新しい発達のエネルギーの誕生を指し示しているのである。
 
 どれほど屈折したかたちであったとしても、子どもたちは、今、その中で、「生きよう」としているのであり、その「生きよう」とする願いとエネルギーに依拠することなしには、この時期の子どもたちの道徳性の発達を保障していく教育実践もまたおこない得ないのである。
 
 しかし、現在、このように、外側の世界に問題行動を噴出させつつ、「生きよう」としている子どもたちはむしろ少数なのではあるまいか。
 
 管理主義教育の進行の中で、現在、多くの子どもたちは、「自己の解放」と「価値的な自立」を願いつつも、自ら実行することができないままに、そのような思いを音楽を聞くというような、受け身的なかたちでしか表現できない状況に追い込まれていっている。現代社会や学校への厳しい批判とその中での自立へのもがきを綴ったブルーハーツの歌が「生きられない自分」を自らの中に抱えながら生きている思春期の子どもたちの深い共感を呼ぶのもそのためであろう。
 
 
 思春期の子どもたちのうえに覆いかぶさってきている人格発達上の危機は、時々刻々と深刻化してきているように思われる。
 
 中学・高校生の子どもたちの間で、今、心身症、薬物依存などの陰性の問題事象の急激な増加が指摘されている。歌にさえ自らの願いを託すことができなかった子どもたちは、新しく芽生えてきた発達のエネルギーを外側の関係の中に表出していくことができないままに、その発達のエネルギーを体の中へと内攻させていく。生身の人間の症状は、自らの中にある「生きられない自分」のもがきや苦しみを、体を通してしか表現できない子どもたちのせいいっぱいの自己表現なのかもしれない。
 
 しかし、たとえそうであったとしても、その体での表現の中には、この思春期の、価値的な自立に向けての発達のエネルギーが込められているのである。それゆえ、そのような症状の背後にある「心の叫び」を共感的に読み取っていくことによって、その子どもたち自身が自らの真の願い、「生きられなかった自分」の存在に気づき、もう一度、仲間と連帯しつつ自分自身を「生き」始められるように、そして、自分自身の生き方や未来像の模索を始められるように援助していくこともまた可能になるのである。
 
 当然のことではあるが、子どもたちがそのような「生きられない自分」を大人との関係の中に表現し始めてくる時、その表現は極めて未熟なかたち、現象的には否定的なかたちを取らざるを得ないこともしばしばである。
 
 そして、まさにその時に、大人自身が、現代社会の様々な矛盾の中で、「生きられなかった自分」を自らの内に背負いながらも、しかし、なおかつ、子どもたちと一緒になって「未来」に向かって「生きよう」としているかどぅかが厳しく試されてくる。すなわち、子どもたちの矛盾に満ちた発達のエネルギーを「柔らかい壁」となってがっしりと受けとめ、逆に自分自身の生き方をぶつけていくことによって、思春期の子どもたちとともに自らも「生きて」いこうとするのか、それとも子どもたちの発達のエネルギーを抑圧してしまい、子どもたちから真の意味での「生きる」自由を奪いとることによって、自らの中の「生きられなかった自分」をも永遠の死の世界に追いやっていくのかが厳しく問われてくるのである。
 
 この思春期後期の価値的な自立に向けての模索は、子どもたちが「進路」によって分断され、孤立させられていく現代社会の中では、多くの困難さがつきまとっていることは紛れもない事実である。しかし、それがゆえになおいっそう、学校の文化祭その他の様々な取り組みを通して、子どもたち自身が新たな「価値」を連帯の力によって実践的に創造しつつ、それを自らの中に取り入れていくことによって、価値的な自立に向けての模索をおこなっていく自由、子どもたち相互の共感関係の中で、「未来像」をともに模索していける自由が保障されていかなければならない。
 
 それと同時に、一人ひとりの子どもたちが、民主的な手続きによって確立された「集団的規律」(それは「相互尊敬の原理」をその根底にもつものでなければならない)に主体的に従いながらも、しかし、それと同時に「かけがえのない個」であり続ける自由が併せて保障されていかなければならないであろう。「かけがえのない個」であり続ける自由が保障されない中では、子どもたちが真の意味での道徳的価値意識の主体として発達していくことなどとうていできないことは論を待たないであろう。
 
 
2 思春期における道徳教育実践の諸局面
 
 
 子どもの道徳性の発達は、矛盾に満ちた現代社会の中では、自然にまかせたままで保障されるものではないことは言うまでもないことであろう。これまで、多くの良心的な教師の努力によって、思春期の子どもたちに、真の意味での道徳性の発達を保障していくための教育実践が積み重ねられてきた。(もちろん、それらの多くは、道徳教育実践として明確に意識化されていたわけではないが・・・・)
 
 子どもの道徳性の発達は、教育実践の多様な諸局面が複雑に連関し合いつつ総合化されていくことによって保障されていくものであろう。この節では、道徳性の発達を保障していく上で不可欠と考えられる教育壌践の諸局面について、(1)学力保障 (2)集団づくり (3)人権教育 (4)自己を見つめる時間 という四つの局面に仮設的に区分しつつ、提起してみたい。
 
 
 1 学力保障 − 道徳教育実践における発達論的前提
 
 
 本書では具体的な実践報告としては掲げられなかったが、各教科における学力保障の取り組みが、道徳教育実践の重要な一局面であることは自明の真実であろう。子どもの道徳性の発達を保障していく教育実践は、確かな学力保障の取り組みと統一されることによって初めて可能になるものである。
 
 たとえば、数学教育において、速度、密度などの「内包量の概念」に関する構造的な理解を獲得していくためには、「一三歳の発達の節目」において獲得される論理操作能力(例 距離と時間という二つの変数を可逆的に操作できる能力)がその発達的な基礎となっているが、この論理操作能力の獲得は、単に数学の領域にとどまらず、道徳性の発達を保障していく上でも重要なものである。すなわち、この論理操作能力の獲得によって、「九、一〇歳の発達の節目」の時期のような、具体的、外面的な条件における個人間の平等(ピアジェ「形式的平等」)を越えて、多様な観点(例その個人の置かれていた状況)を考慮し、総合化したかたちで個人間の平等を実現していく必要性(ピアジェ「実質的平等」)を理解し、実践していくための発達的な基礎が形成されていく。
 
 しかし、この場合、単に、各教科における学力の保障が、道徳性の発達を保障していくための必要条件という一方向的な関係ではなく、両者は相互に連関し合いながら発達していくものであると考えられる。たとえば、クラス内で生じた問題について、意見を交流し合い、みんなが納得できる一つの統一した意見にまとめあげていくというような、「集団づくり」実践の中で培われていく自治能力とその過程で形成されてくる道徳的価値意識は、登場人物の関係について多面的に理解したり、登場人物相互の考え方を比較してみたり、というような国語の授業過程の中で培われていく学力とも密凍に関連し合っている。
 
 ややもする上、「徳育なき知育」を口実にして、「知育」と切り離された「徳目」の注入が図られようとしている現在、このような各教科における学力と道徳性(=人格的力量の中の価値意識的側面)との相互連関の構造を明確に捉え、道徳性の発達を保障していく教育実践を、確かな学力保障の実践との統一の上に打ち立てていくことの重要性はますます高まってきている。
 
 
 2 「集団づくり」 − 民主的な相互関係の実践的な創造を通じての道徳的価値意識の形成
 
 
 「集団づくり」実践は、主要には、何らかの活動を子ども集団が共有しつつ、集団内部の相互関係を民主的な関係、より高い質を持った関係へと実践的に変革していくことを通じて子どもの人格的力量の形成を図りつつ、それとの連関で、各個人の内面における人権意識、道徳的な価値意識の変革に追っていく実践であると考えられる。したがって、相対的には、子どもがその中で生活している集団(クラス、学校集団、地域での集団等)内部の相互関係の変革を媒介として一人ひとりの個人の道徳的価値意識の変革を目指すという方向性を重視する実践であると言えるのではないだろうか。
 
 たとえば、培良中の実践においては、暴力追放集会の取り組みを通じて、「集団内のすべての人間には、自らの人権が守られる権利があると同時に、他者の人権を守っていく義務がある」という道徳的価値意識の形成に迫っている。
 
 それと同時に、文化祭その他の様々な文化活動を自治と共同の論理にもとづいておこなっていくことによって、思春期の子どもたちに、「自らの生き方」への問いかけ、あるいは、「価値的な自立」に向けての模索のプロセスを集団的に保障していくことも、「集団づくり」の重要な役割であろう。すなわち、一人ひとりでは「価値」を創造していくことか困難な子どもたちであっても、「合唱」の取り組みなどに見られるように、連帯の力によって一つの文化価値を実践的に創造していくことによって、価値創造の主体になっていくこともまた可能になってくるのである。
 
 しかし、その際に厳しく問われなければならないのは、子どもたちが、その集団の中で、本当に自分自身を「生きて」いるのかということであろう。集団は、子どもたちにとって必要不可欠な「発達の源泉」を提供するものではあるが、同時に、その性質によっては、子どもたちを人格発達疎外の状況にも追い込みかねないものでもある。労務管理的な「集団づくり」が、労働者に対してのみならず、子どもたちに対する管理にまで用いられてきている現在、表面的なまとまりではなく、その集団の中で、子どもたち一人ひとりが本当に自分自身を「生きて」いるのか、という問いかけが常になされていかなければならないであろう。
 
 「集団づくり」は、集団内部の相互関係を、様々な差異にもかかわらず、すべての個人の人権(その中には人間らしく発達していく権利も含まれている)が等しく保障されるような相互関係に実践的に変革していくプロセスを通じて、「人権とは何であるのか?」という問題に切り込んでいくという意味では、(3)にあげている「人権教育」そのものである。また、討論その他の中で、他者との意見の交流をおこないながら、多様なかたちで自らの行動や考えを反省的に見つめていけるように援助していく実践であるという意味では、(4)にあげた「自己を見つめる時間」を保障する実践にもなり得るものであろう。それゆえ、「集団づくり」実践の中には、その本来的な姿においては、道徳教育実践において考慮されるべき多くの局面が含まれており、「集団づくり」実践を抜きにしては、真の道徳教育実践は成立しないと言っても言いすぎではないであろう。
 
 
 3 人権教育 − すべての個人が人間らしく生きられる社会をめざして
 
 
 右に述べたように、「集団づくり」実践の過程では、「真にお互いの人格が尊重されるような相互関係」への価値づけないしは価値意識が形成されていくわけであり、その意味では、そのプロセス自体がまさしく人権教育である。
 
 そのような「集団づくり」実践の過程を通しての人権教育ともかかわらせながら、思春期における人権教育においては、社会の中に現実に存在する人権問題について様々なかたちで提起しつつ、自然的、性的、文化的、人種的その他の様々な差異を越えて、すべての人間の人格が相互に等しく尊重されなければならないという「相互尊敬の原理」を確認していくことが必要であろう。その原理に根ざした人間関係を身近な集団や地域において、さらには、現代および未来の社会においてどのようにしたら創造していけるのかをともに探求していくような取り組みが求められてくると考えられる。
 
 ところで、様々な他者の生きざまを通して自らの生き方や未来像を模索していく思春期の子どもたちに対しては、できるだけ具体的な他者との出会いの中で、人権問題を探求していける場が保障されていく必要がある。
 
 峰山中の生徒たちは、地域の老人への「聞き取り調査」をおこなう中で、その老人たちが、どのような人権の抑圧された世界の中を生きぬいてこなければならなかったのかを知って深い感銘を受ける。そして、今は当たり前のようになっている基本的人権でさえも、決して以前の人たちには保障されておらず、多くの人びとの血のにじむような努力の中でそれが獲得されてきたことを理解していく。そして、単なる昔話ではない、身近な老人たちの生きざまを通して、あらためて、「基本的人権」を擁護し、発展させていく取り組みに対する、「自らの責任」を自覚していったのである。
 
 しかし、現代社会の様々な矛盾にさらされていく中で、多くの子どもたちは自分自身への、そして世界への信頼感そのものを失いつつある。そのような子どもたちに対して、現代社会の中に厳然として存在している様々な人権問題を一方的に提起していくだけでは、「ぼくたちには関係ない!」というかたちで、子どもたちは自己防衛的にそれらの問題から目を閉ざし、考えることの苦しさから逃れようとしてしまうのではないだろうか。人権教育は、同時に、子どもたち自身の中に、「未来への希望」を育んでいく教育でなければ、その真のカを発揮し得ないのである。
 
 さらに言えば、人権教育は、子どもたちに、まず何よりも自らの人権を大切にするように厳しく迫っていくこと、それを通じてややもすれば失われてしまいそうになる自己への信頼感を取り戻せるように援助していく実践でなければならない。なぜなら、自らの人間としての権利を大切にできない子どもたちが、真の意味で、他者の人権を尊重できるはずなどないからである。家庭のどこにも「居場所」がなく、すぐに崩れていきそうになる少女に対して「自分自身を大切にすること」を厳しく追っていく中坊先生らの姿(第3章2)は、人権教育の根本が何であるのかを明確に指し示してくれているように思われる。
 
 思春期においては、人権教育の中にも、様々な「社会的自立モデル」との出会いが内に含まれている必要があり、そのようなモデルとの出会いに支えられて初めて、自己への信頼感や未来への希望と切り結ばれた人権教育が可能になっていくのではないだろうか。人権教育の中でも、現代社会を生きる思春期の子どもたちの抱える様々な苦悩や葛藤にどれだけ切り結び、寄り添ったかたちで実践を展開していけるのかが、現在厳しく問われてきている。
 
 
 4 「自己を見つめる」時間  − みんなと一緒に、一人で −
 
 
 ある京都市内の小学校六年生の女子が綴った、「素直になりたいよう」という作文は、広くクラスの中での共感を生み、それ以後、より多くの子どもたちが自らの内面を「素直に」綴ってくるようになったと言う。
 
 「生活綴り方」の実践においては、受容的な雰意気の中で、自らの生活現実をありのままに綴り、それを他者に向かって表現していくことを通じて、子ども自身が、単に生活現実に押し流されていくのではなく、自らの生活状況や人間関係をありのままに見つめていけるような契機が生み出されていく。そして、教師や仲間の温かいまなざし”を支えにしながら、生活現実の中の苦悩や葛藤に押しっぶされることなく、生活現実に根ざしたところから子どもたちが「未来への希望」を育んでいけるように教育的な援助がなされていく。他の子どもたちにとっても、ありのままに綴られた他者の生活現実、そして、その中での様々な喜びや不安や葛藤に出会う中で他者への共感的理解を深めながら、それを契機にして、自らの生活現実やその中での様々な不安や葛藤をありのままに見つめていく契機が生み出されていくのである。
 
 「生活綴り方」実践は、教師との、また仲間集団内部の共感的な人間関係を支えとしつつ、自らの内面に働きかけていく「時間」を築いていくことによって、子どもたち一人ひとりが自らのものの見方、価値意識を反省的に捉え直し、それらを変革していく自由を保障していく実践であり、そこから、集団内部の相互関係をより深い相互理解と発達的な共感関係に根ざしたものへと変革していくことを目指した教育実践であると言えるのではないだろうか。
 
 そして、このような実践の過程は、「生活綴り方」に限らず、自己を見つめる契機を何らかのかたちで保障していこうとする様々な教育実践に共通して含まれているものであろう。
 
 現在は偏差値による輪切りが進行し、子どもたちは偏差値でしか自らの「未来」を捉えられない状況に追い込まれてきている。また、職場と家庭が切り離されて、「労働」ということの意味や価値が極めて見えにくくなっている時代でもある。それゆえ、子どもたち自身が、どのような生き方が価値のある生き方なのかを自問し、自らの「未来像」をしみじみと考えていけるような契機の保障がとりわけ重視されなければならない。
 
 東城陽中では、二年生の進路指導の実践の一貫として、その学年の親たちが綴った作文(これまでの自らの人生の過程やその中で培われてきた価値観を綴ったものが多い)などを読んで学習しながら、自らの生き方の指針となるような「社会的自立モデル」を子ども自身が自らのうちに取り入れていけるように援助する取り組みがおこなわれている。そして三年生の「進路公開」の実践では、クラス全員が自分自身の「進路」についての作文を綴り、みんなの前でそれを読み、そして、全員がそれへの感想を書くという取り組みがおこなわれている。そのことを通じて、受験競争の中で、ややもするとずたずたに分断され、孤立させられていく子どもたちの中に、表面的な進路の違いを乗り越えた共感関係を生み出していくと同時に、他者の樽々な思いを自らの中に取り入れながら、しかし、自分自身のカで自らの「未来像」を模索していく契機を保障する実践となっている。
 
 「自己をしみじみとふり返る」ための教育実践の契機は多様なかたちで存在している。日常の中では反省的に把えていくことが困難な不安や葛藤、あるいは不定愁訴の形でしか表現できないような自らの本来的な願い(=「生きられない自分」)を反省的に振り返っていく「視点」(パースペクティブ)を文学作品その他を通じて提起していくことや、多様なかたちでの「社会的自立モデル」との出会いを保障していくことがとりわけ重要であろう。
 
 今後、子ども自身が、自らを振り返り、価値的な模索、「未来像」の模索をおこなっていけるようなすばらしい文学作品や映画、演劇などの教材が、その時々の子どもの状況や地域の状況をふまえつつ、教師や父母の手によって自主的、主体的に編成されていかなければならない。
 
 ところで、「道徳」の副読本の中に乗せられている資料の中にも、子ども自身が自らの人間関係を、あるいはこれからの生き方を見つめさせていく契機となり得るものも多くみられることは事実であろう。しかし、真の意味で「自己をしみじみと振り返る」契機としていくためには、いわゆる「道徳の時間」でおこなわれているような、一つの「徳目」ないしは価値への「一般化」を授業時間の中で性急におこなわせるようなものであってはならないであろう。なぜなら、子どもが道徳的価値意識を形成していくプロセスは決して直線的なものではないからであり、子ども自身の価値的な模索のプロセスとその中でのつまずきや葛藤の機会を十分に保障するものでなければ、真の意味で子どもの価値意識の変革に迫るものにはなり得ないからである。
 
 現在の官制の「特設道徳の授業」では、「問い」と「答え」の関係があまりにも直線的であり、子どもの人格発達の、そして、道徳的価値意識の弁証法的な発展の過程を無視して価値を「内面化」させようとしているところに最大の問題点があるように思われる。「問い」に対する「直線的な答え」を求めるような授業の中で作られるものは、せいぜい、上から与えられた命令には従順であるが、それがない中では何一つ決定できないような他律的人格でしかないであろう。
 
 以上、大きく四つの局面に分けて、道徳性の発達を保障する教育実践の諸局面を捉えることを試みたわけであるが、これらの諸局面が、有機的に関係づけられ、統合されていく中で、子どもの道徳性の発達を保障していく教育実践の全体像が築かれていくのではないかと現段階では考えている。
 
 
3 思春期における道徳教育実践の課題
 
 
 最後に、思春期における道徳教育実践の課題について、前期と後期に分けて、項目的ではあるが整理してみたい。
 
1 思春期前期の道徳教育実践の課題(小学校高学年から中学校l年生段階)
 
(1) 学力保障
 個人相互の関係における「相互尊敬の原理」を明確に認識、さらには普遍化していく上での発達的な基盤である、「一三歳の発達の節目」を乗り越えていける確かな学力を、すべての教科教育を通じて保障していくこと。
 
(2) 集団づくり
 子ども集団の「集団的自己主張」についての十分な配慮をおこないつつ、様々な活動や機会を通して、それぞれの違いと良さを認め合い、お互いの生活の中での喜びや悲しみを理解し合いながら、より深い平等性を持った相互関係、一人ひとりがかけがえのない人格を持った存在として尊重されるような相互関係を集団内部に実践的に創造していくこと。そして、そのようにして実践的に創造された相互関係を子どもたちが自らの中に取り入れていくことによって、「相互尊敬の原理」にもとづく確かな道徳的価値意識を形成していけるように援助していくこと。
 
 とりわけ人間にとっての「性」のもつ意味、大切さを教えつつ、男女のお互いの違いと良さを認め合い、男女相互の関係の中に「相互尊敬の原理」を実現していくことがこの時期とりわけ重視されなければならない課題であろう。
 
(3) 人権教育
 集団づくり実践の中で形成されてきた道徳的価値意識(すべての人間が、かけがえのない人格を持った存在として等しく尊重されなければならないという価値意識)に依拠しつつ、できるだけ身近な集団や地域に根ざしたところから教材を選択しながら、平和問題、人権問題等について考えていける契機を保障していくこと。
 
(4) 自己を見つめる時間
 日常的な友達や家族との関係、様々な諸局面で現れてくる自分自身の姿などをふと振り返り、そこから「真の友情」について、また自分自身のあり方などについて考えていけるような「視点」を、文学教材や作文の読み合せその他の様々な機会を通じて主体的に獲得していけるように援助していくこと。
 
 
 2 思春期後期における道徳教育実践の課題(中学校二、三年生から高校生段階)
 
 
(1) 学力保障
 「見えない世界の中にある法則性」を捉え、世界観的な価値を認識していく上での発達的な基礎となるような抽象的思考(数学の領域で言えば、無理数の理解、三角関数の理解など、理科で言えば、加速度の理解やイオンの理解等)の獲得に向けての学力保障の取り組みを進めていくこと。
 
(2) 集団づくり
 思春期前期(一三歳の発達の節目)に獲得された人格的力量、および「相互尊敬の原理」にもとづく価値意識の形成をその発達的な基礎としつつ、文化祭、体育祭その他を通じて、新しく発生してくる発達のエネルギーを注ぎ込んでいけるような活動内容を学校の中に創造して、価値的な模索、未来像の模索を、集団的な連帯の中でおこなっていける場を保障していくこと。そして、そのような価値創造の過程を基盤にしつつ、集団内部の相互関係を民主的な人間関係に変革していくことを通じて、「相互尊敬の原理」をより確かなものにしていくこと。
 
(3) 人権教育
 自分自身の存在を、そして自らの未来をかけがえのないものとして認識していけるように援助していく実践のプロセスを基盤にしつつ、社会の中に存在する様々な人間疎外の状況と、現代および未来の社会(その中には当然、「第三世界」の間邁も視野に入れられなければならない)におけるその実践的な克服にむけての課題と展望を一緒に探求していくこと。
 
(4) 自己釘見つめる時間
 思春期特有の、自分自身でも対象化しきれない未来への不安や葛藤にじっくりとつき合い、時には一人の人生の先輩としての意見をぶつけていく中で、子ども自身が自分を見つめ、他者を見つめ、自分なりの未来像、アイデンティティを模索していくプロセスを援助していくこと。進路指導や文学教材その他の中で、多様な「社会的自立モデル」を自らの中に取り入れていけるように援助しつつ、「未来への希望」を持って自らの生き方を模索していける時間、お互いの生き方を共感的に理解し合い、他者の思いと連帯しながら、しかし、自分自身のカで自らの生き方を模索していけるような時間を保障していくこと。今後、さらに多くの素晴らしい実践との「出会い」の中で、今回提起した理論仮説をさらに充実したものにしていきたいと考えている。
 
 
注釈
(1)この時期区分は、「可逆操作の高次化における階層−段階理論」(田中昌人 一九八七年他)に依拠しっつ仮設的におこなったものである。詳しくは、田中昌人「人間発達の理論」第T部、第3章、京都教職員組合養護教員部編、一九八七年、田中昌人「子どもの発達と健康教育」Bかもがわ出版、楠凡之「学童期から思春期における相互性の発達過程について可逆操作の高次化における階層−段階理論の視点から」京都大学教育学部紀要]]]X、一九八九、二五六−二六六ページ、等を参照のこと。なお、ここでの時期区分は、発達的な遅れやつまずきを特に持っていない児童・生徒を対象とした時期区分となっており、その点での制約をもっている。本来であれば、発達的な遅れやつまずきを抱えている児童・生徒における思春期の道徳性の発達過程についても合わせて検討すべきであるが、今回は紙面の関係で省略せざるを得なかった。悪しからずご了承いただきたい。
(2)ピアジェの道徳性の発達理論については、ピアジェ(Jean Piaget)著大伴茂訳児童道徳判断の発達、同文書院、一九五七年が主要なものであるが、この著書は一九三二年に書かれたものであるため、道徳性の発達過程と論理操作能力の発達過程との関連は明らかにされていない。両者の関連を理解するためには、その後に出版された諸著書を参照する必要がある。
(3)「内なる他者」という用語は、フランスの心理学者のワロン(Henri Wallon 1956年)が用いたものである(詳しくは、ワロン著浜田寿美男訳編「身体・自我・社会」ミネルヴァ書房、一九八三年、二三−五一ページ参照)。子どもは、現実の他者(大人や仲間集団)に対して能動的に働きかけて他者との相互関係を取り結んでいくが、その相互関係が自己の内に取り入れられていく中で、自己の内部に「内なる他者」が形成されていくと考えられる。このような「内なる他者」は、乳児期、幼児期においても、他者との間で取り結ばれた相互関係を媒介として形成されていき、それぞれの時期における「自己信頼」と「道徳性」の発達的な基礎を築いていくと考えられる。
(4)「社会的自立モデル」という用語は、田中昌人が、ドイツの人格心理学の知見などを参照しつつ独自に提起した概念である。田中、前掲書、一九八七年、九七ページ 京都教職員組合養護教員部編、前掲書、一九八八年、五二−六〇ページ等を参照のこと。                           (楠 凡之)
 
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