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新しい子ども観・指導観を探る

「幼さ」を「自分らしさ」に
子どもの「荒れ」・「学級崩壊」からの出口

 1999年11月 京都教職員組合 民主教育推進委員会生活指導部会
京都教育センター                      
 この文章は、1999年11月に、京都教職員組合 民主教育推進委員会生活指導部会並びに京都教育センターが発行したパンフ「新しい子ども観・指導観を探る 「幼さ」を「自分らしさ」に 子どもの「荒れ」・「学級崩壊」からの出口」を元に京都教育センター事務局の責任で一部要約・編集したものです。    

(はじめに)

 私たちは1997年11月に「学級崩壊」冊子の第一集(『幼さから子どもらしさに・ 子どもの荒れ・学級崩壊から出口を探る』)を発行し、京都府内の教職員に学習討 議を呼びかけました。

 私たちが冊子を作成したのは、「学級崩壊」問題を実践的に克服するとともに子どもを主人公にした学校づくりが大きく広がってほしいという 願いからでした。

 この冊子は京都府内の教職員はもとより、全国の教職員組合、研 究者、管理職、教育行政、マスコミ関係者から問い合わせをいただきました。

 しかし、1998年1月末に栃木県黒磯市で起きた中学生による教師刺殺事件やその 後の中高生による一連のナイフ事件、そして「不登校・登校拒否」や校内暴力の増 加、「学級崩壊」の全国的な広がりと子どもをめぐる状況はいっそう困難さを増し ています。「学級崩壊」の実践的な克服は、今日の教育にとって一刻も猶予できな い問題です。

 また、「学級崩壊=教師資質論」が意図的にふりまかれ、問題解決を困難にする 動きも見られます。

 今回、私たちが編集・発行した冊子は、第一集で明らかにした基本的な視点に依 拠しながら、この間の情勢の展開と研究と実践の中で明らかになった問題をふまえ、 その視点のいっそうの深化・発展をめざしたものです。各職場での学習討論に積極 的に活用していただくことを希望します。

 なお、このパンフは、編集委員会での討議をふまえて、担当者が各章ごとに執筆 したもので、それぞれひとまとまりの内容となっています。重複する箇所がいくつ かありますが、その調整は最小限度にとどめたことを付記しておきます。

CONTENT

はじめに

第一章 「学級崩壊」問題の今日的状況…何が課題か?

第二章 新しい子どもの変化、「荒れ」をどうとらえるか
   (1)「新しい荒れ」の具体的な現れ
   (2)「新しい荒れ」の質的な特徴
   (3)子どもの変化の大きさ、「新しい荒れ」はどこからくるのか?

第三章 1.はじめに
     2.子どもたちの変化
      3.広がる子どもと学校・教師との距離
      4.子どもをとりまく親や社会の変化
      5.人として大切にされる時間と空間を−その克服の方向−

第四章 学級崩壊・指導困難から出口を探る
    T.指導を豊かに
    U.学校のあり方を変える
    V.子どものための教育課程づくり・学校づくり

第五章 地域の協同関係の中に学校を
   (1)学級崩壊の背後にある現代の生活問題についての学習を
   (2)暮らしの協同の取り組みへの参加を
   (3)今、求められている教育協同のスタイル
   (4)父母交流のきっかけづくりを
   (5)子育ち・子育て・教育      一子どもの企画に大人がのる−
   (6)学校を地域の協同関係の中に

あとがき

第1章 「学級崩壊」問題の今日的状況…何が課題か?


 私たちは一昨年「学級崩壊」に関するパンフを 作成し、そこで次のように問題の所在を明らかに するとともに、その間題の解決のための出口を模 索しました。

 「学級崩壊」現象は、日本の社会が抱える病理 現象と深く結びついた現象であり、今日の子ども と教育をめぐる状況全体を映し出している構造的 な問題であり、その本質的な矛盾のあらわれであっ て、それを教師の個人の資質の問題や地域的な条 件の悪さから生じる例外的な現象であるかのよう に矮小化することは事態の本質を見誤る恐れがあ ることを指摘した上で、この問題の解決のための 出口を求めて、従来の子ども観・指導観の転換、教職員相互の支えと励ましの大切さ、子どもが学習の主体である学校づくりの重要性などを強調し て問題解決の方向性を提示しました。

 しかし、事態の推移は小学校高学年から低中学年での新たな困難の発生を見るに至り、学級崩壊への直接の対応だけでなく指導の根本にかかわる問題や父母との関係づくりの難しさをどう克服するかなど、多くの課題を見せてきています。

 ところが、この間、「学級崩壊」 をめぐる多様 な論議展開は、問題を拡散させたり、混乱させる ものも含んでいます。「教師資質論」の台頭や、 「新学力観への傾斜」を深くし、「個性重視」の名 のもとで、「仲間とともに」学ぶことの意義を軽視する傾向、目標を設定してがんばることや学級集団そのものの解体の主張などがあります。また、 子どもへの「毅然とした」対応とか、警察など関係機関との連携強化、少年法改悪の動き、あるいは「心の教育」と称する新たな「管理主義」を容認する風潮も生み出されています。それは、子どもの変化や教師の真筆な努力に学ぶことなく、すべてを家庭のしつけや教師の資質の問題に還元す るものとなっています。

 とりわけ、京都市教育委員会が新たに発足させ た「学級崩壊未然防止専任サポートチーム」は、 その意図に反し、教職員相互の支えと励ましとい う重要な関係を分断し、ますます「もの言わぬ」 教師を作り出し、「もの言わぬ学級」を作り出し ています。

 私たちは「学級崩壊」という現象にのみ目を奪 われてはなりません。その背景にある子どもたちの「荒れ」がどこから生じ、どこへ向かっているのか、それに注目する必要があります。

 私たちが小学校低中学年に注目したのは、この時期の子どもたちの発達の固有の課題に注目して のことに他なりません。それは就学前教育(幼稚 園・保育園)と小学校教育とを結ぶ教育課程を子 どもの発達に即して適切に準備することの困難性 をどう克服するかということでもあります。

 そのためには、発達のそれぞれの時期に応じた固有の課題を明確にしながら、それを形式的に区切るのではなく、子どもの成長・発達の全体を見通しながら、幼・保・小を結んでの子ども観・指導観を豊かにすることが重要です。

 私たちはあらためて最近の子どもたちをめぐるさまざまな事態の推移を歴史的に比較検討し、そ こに見られる「荒れ」の特徴を整理し、とりわけ、その「荒れ」が低・中学年の時期にどのような困難をもたらしているかを直視しながら、その克服 の方向性を探り、それぞれの時期の発達に即した教育課程づくりを追究しました。

 その際、最も障害となるのは文部省→教育委員会→学校という上からの支配構造であり、その一元的な価値観の強制であり、硬直した学習指導要領の基準性です。それらがいかに多くの教師や子どもの真摯で自由な教育と学習を阻んでいるか、そこにいま子どもたちに起こっている否定的な現象の一つの、しかし最も大きい病根があることを 指摘せざるを得ません。

 しかし、このような現実に抗して、多くの父母 と教職員の共同のとりくみは今も続けられています。そこに見られる自治的で創造的なとりくみこ そ、この困難な状況を克服する基盤となるもの言 えます。


第2章 新しい子どもの変化、「荒れ」をどうとらえるか

(1)「新しい荒れ」 の具体的な現れ

 第一章で、「『学級崩壊』という現象にのみ目を奪われてはなりません。その背景にある子どもたちの「荒れ」がどこから生じ、どこへ向かってい るのか、それに注目する必要があります」と指摘 しました。「学級崩壊」への対応がいっそう管理強化に傾斜する傾向があります。その場合、表面的には確かに「落ち着いた」状況になったとしても、それで「学級崩壊」を解決したことになるのでしょうか。私たちは「学級崩壊」にだけ注目す るのではなく、その背後にある子どもたちの「荒れ」の状況をしっかり見ておく必要があります。

 今日、全国の子どもの中に「新しい荒れ」と呼 ばれる変化が見られます。京都府内各地でも都市部、農村部に関係なく、この変化の特徴は共通しています。この変化を単に「荒れ」の拡大と呼ぶか「新しい荒れ」と呼ぶかどうかば別にして、この変化、「荒れ」には今までの子どもにもみられた連続面と、新しい特徴が見られます。

 具体的な 荒れ″ の事実としては次のようなこ とがあげられます。


[授業中の態度]

@授業中にもかかわらず大きな声で私語をする。注意してもくりかえし、席を離れた者同士で話をしたり、時にはその中からケンカが始まる。
A消しゴム、紙飛行機、文具などを投げたり、時には教師の背中めがけて物を投げ、他の子どももそれを見て笑っている。
B教師の発問に対して、挙手・発表が極端に少なくなり、指名してもまともに答えなかったり、ふざけたことを発言し、他の子も笑っている。
C教科書、ノート、文具を出そうとせず、教科に関係ないものが机に置かれている。
Dマンガ、ゲーム、おもちゃ、トランプ、カードなどを隠れてやったり、時には公然と遊んだり、紙に書かれた物があちこちで回される。
E教師の許可なく、勝手に席を立って他の席に行ったり、教室をウロウロ歩く。注意しても繰り返す。時には教室の外に出ていく。
Fテストやノート書き、プリントなどをまじめにやらず、落書きをしたり、時にはまるめて捨てたりする。

[清掃・給食・当番・係活動]

@清掃場所には行かずに、校舎の裏などで遊んでいたり、他の場所に行っておしゃべりして遊んでいる。清掃場所に行ってもほとんど作業はせず、道具で遊んでいたり、まじめに清掃をしている子どものじゃまをする。
A給食当番はほとんどまじめにやらず、給食を返すときには遊びに行ってしまう。時には自分の好きなおかずを自分だけ多くとったり、当番の立場を使って多く入れたりする。残っているおかずを勝手に取っていったり、弱い子どもに「くれ、くれ」としつこく言って実質的に取ってしまう。パンや給食の一部を投げたり、バターやジャムを机などに塗りたくる。
B係の仕事や当番、委員会の仕事などはほとんどやらず、逆にちゃんとやっている子どものじゃまをしたり、遊びにまきこむ。

[教室・教具・便所・施設]

@教室は常に散らかり、落書き、板、ガラスなどを割ったり、破ったりが続く。それも 「やむなく」ではなく、「イライラ」から机や椅子、腰板、ドア、便器などをけったり  ぶつかって壊す。注意しても非を認めず、合理化する。他の子どもがかばって誰がやったかわからない。時には、トイレで大便で遊んだり塗りたくることも。
A教室の教師の机や戸棚などの物を勝手にさわり、時にはそれで遊んだり、持ち出しり、いたずらをする。

[友人関係・子ども関係]

@大小問わず、「いじめ」が増える。弱い立場の子どもに体や「名前」でいやがること、暴言、差別の言葉を平気で言ったり、公然とあるいは陰に隠れてのいじめ、暴力、集団の暴力、いやがらせが増える。
A「靴隠し」や持ち物、お金や作品などがなくなったり、いたずらが増え、互いに同級生や、時には「友達」を疑って不信をもっている。
B暴力的な子どもや反抗的な子どもがグループをっくっていながら、互いに本当の信頼がなく、時にはそのグループ内の仲間の中で暴力やいじめが起きる。
C下級生や他校生、障害児・者、老人などに暴言を吐いたり、暴力、いやがらせ、いじめたりする。

[教師に対する態度]

@授業中、私語や立ち歩き、教科書を出さない、ノートに書かないなど。注意しても無視するので、再度注意すると「うるさい」「やかましい」「先公黙れ」「クソパパー」など、暴言をはく。
A立ち歩きを注意したり、授業に関係のない物で遊んでいるので取り上げたりすると、食ってかかり、時には教師に殴りかかったり、蹴ったりする。
B注意した教師の自動車や持ち物にいたずらしたり、壊したりする。

[服装、持ち物、髪型]

@小学生でも茶髪(金・青・紫も)をしてくる(親も認めたうえで)。マニキュア、口紅、入れ墨シール、ピアス、イヤリングなどをして学校に来る。
A龍の絵のある暴走族風の服装や米軍兵風の服装で登校してくる。

[夜の行動]

@夜の外出や遊びが増える。家の人の帰りが遅い(8時、9時)ので知らなかったり、止められなかったりする。
A友達の家に泊まることがたびたび続いたりして深夜まで遊ぶ。親も認めたり止められなかったりする。

(2)「新しい荒れ」の質的な特徴

 今、日本各地で起っている「学級崩壊」や少年による殺傷事件、「小学校低学年・中学年の変化」 にはそれぞれ独自の原因や条件がありますが、いずれも、今日の子ども全体の変化を背景にもっていると考えられます。もちろん中学生、青年などが起こす問題行動の中で、1980年代からずっ と続いている「校内暴力・器物破損・登校拒否・ いじめ自殺」などは今日も継続していますが、一 つひとつの事件、事例を分析すると、80年代の 「非行」と呼ばれるものとは質的に違ったものを もっています。

 例えば、98年に京都左京区で起 きた中学三年生の 「暴行死事件」をみても、今までと違った特徴を見ることができます。それは、 小学校で起きている「学級崩壊」や「荒れ」と共通しており、全国で起きている「少年事件」とも 共通するものです。

 「新しい荒れ」 の特徴としていわれていることを整理すると次のような諸特徴をあげることがで きます。
@予想のつかない子どもが問題をおこす

 いわゆる問題行動を起こす子どもは、以前であれば特定の子ども、特定のグループを形成していた子どもで、日常的に教師が注意を払っていたのに対して、「新しい荒れ」の子どもは必ずしも問題行動を重ねてきた子どもに限らないということ です。予想がつかず、「え、あの子が、こんなこ とを?」と驚かされるのです。

A突発的であること

 今までは問題行動を何回か繰り返し、その行動が次第に深刻になっていき非行の道を徐々に段階的に進んでいったのに対して、「新しい荒れ」で は、大きな暴力事件や問題行動をいきなり起こしています。

B攻撃の対象や原因が不明確

 「イライラしていたので」「ムカついたので」 「誰でもよかった」。「なぜ、その子に、そんなこ とをしたのか」と尋ねても自分でははっきりしま せん。かつては暴力や反抗の対象は「対教師」や 「対父親」「特定の子」であったのが、「新しい荒 れ」では対象や原因がはっきりしなかったり、あっても小さな「きっかけ」にすぎないことが多いの です。

C問題行動を起こすグループの質が今までとは違う

 グループを組んで行動を起こす子どもたちは、 以前であればグループの中に支配的な子どもとそれに従う子どもがいて(いわゆるピラミッド型構造を形成)、支配的な子どもののもとでまとまっ て行動したり、遊んだりというように、一応グルー プとしてのまとまりをもっていました。しかし、 「新しい荒れ」のグループは外見的には今までと 同じように見えても、まとめ役になる子どもが明確ではありません。また、仲間同士の信頼関係も希薄でグループの中にもさまざまな「いじめ」が あり、平気で仲間の悪口を言ったりというように、 単なる「群れ」の状態になっています。

D「新しい荒れ」の子どもたちは必ずしも低学力や「落ちこぼれ」ではない

 これまでは「非行」を起こす子どもたちは一様 に「低学力」が指摘され、「学力をつけること」 が非行や問題行動克服の重要なポイントでした。 しかし、今日の状況は「低学力」の子どもだけが 問題行動や非行、「新しい荒れ」や事件を起こす わけではなく、むしろ勉強もスポーツもよくできて、学級のリーダーであったような子どもも「少年事件」に関与しているのです。

E攻撃性がすさまじく手加減ができないことも

 「死ね」「殺したる」「ぶっ殺す」という言葉は、ゲームや漫画の影響もあり、小学校低学年や中学年の子どもでも平気で使い、腹を跳び蹴りしたり、ハサミやカッターナイフを振り回したり、ひとつ違ったら大変なことになるような行為もみられます。幼い子どもとは思えないくらい恐ろしい目を することもあります。「ぶっ殺す」は単に脅かしだけでないところに特徴があります。

F「繊細で神経質な」子どもが「荒れる」例が増えている

 今までは、大変なことを起こす子や暴力をふるう子は、「気の荒い」「気の強い」図太い神経の子というのが常でした。しかし、今日、「荒れる」 子どもが、実はつい最近まで「登校拒否」や「不登校」であったり、「集団に入れないで孤立した弱い子」であったという例が増えています。これは、従来ではあまり考えられなかったことです。 80年代の生活指導実践においては「登校拒否、 登校しぶり、集団の中の孤立」を「暴力、窃盗、攻撃的ないじめ」などの「反社会的行動」と明確に区別してきました。しかし、今日、この両者が交差し、接近する例が増えてきています。一見、 暴力的で攻撃的で残虐な事件を起こした子どもが 実は「傷つきやすい」「神経質な子ども」であっ たということが増えています。ここに、現代の子どもを理解する上での難しさがあり、今までとは違った視点をもつことが重要となっています。

G「仮想現実」の中での危険な体験

 子どもをとりまく文化状況の影響によるものです。今日の子どもたちはテレビゲームやアニメ等、 マスコミ文化の中で、現実社会の暴力や殺人事件とゲームの中の世界との境界が限りなくあいまいになると同時に、「仮想現実」(バーチャルリアリ ティー)の中に楽しみを見い出していることが少なくありません。もともと子どもは大人と違って 虚構世界と現実世界を往来しながらイメージをふくらませ、豊かな感性を育てていくところがあり ます。しかし、今日ゲームの中の殺人や暴力的世界にどっぷりつかっている中で、子どもたちはたいへん危険な体験を重ねているのではないでしょ うか。98年、栃木県黒磯市で起きた女性教師刺殺事件の加害者の少年もそんなゲームに夢中になっていたと伝えられています。

H行為の重大性がなかなか認識できない

 行為が残虐で非人間的であるにもかかわらず、 その行為の重大性を認識できず、集団の中ではそ の暴力、残虐な行為が、あくまで遊び的で、ショー 化している例が増えています。

I「荒れる」子どもたちの家庭状況の変化

 過去の問題行動や非行に走る子どもの家庭は、 貧困であったり家庭不和があったりと、その困難 が外からよく見えたのに対して、「新しい荒れ」 の子どもの家庭は、一見、何不自由なく、経済的 にも中・上流で、両親は社会的地位があり教育熱 心な家庭である…という場合が少なくありません。 そこには、人間不信、虐待、冷たい関係など、 「見えにくい家庭崩壊」が隠されている場合が多 いのも特徴です。

 以上、今日の子どもの大きな変化、「新しい荒 れ」の特徴を挙げましたが、F〜Hに着目すると、 家庭という人間観(感)形成の基礎が揺らいでい ることで、対人関係におけるリアリティー、自己の存在に対するリアリティーが希薄になり不安定になっている状態がみてとれます。この不安定さにに発する攻撃性・問題性が出てきているといえます。とすれば今日の事態は当面広がると考えざる をえません。

(3)子どもの変化の大きさ、「新しい荒れ」はどこからくるのか?

 他に見られるような今日の子どもの変化の大きさ、「新しい荒れ」はなぜ起こるのでしょうか。 これは簡単な一つ二つの原因ではなく、今日までの教育政策、経済、文化状況全体の中で生み出さ れたもので、複雑かつ複合的なものです。

@学校教育への管理統制の強まりによる影響

 学校五日制が月二回になったにもかかわらず、 学習内容は全く削減されず、むしろ学習指導要領の徹底が強まり、学校の管理体制は過去のそれとは比較にならない程に強化されています。京都の学校現場においても、週案の提出強要によって学習指導要領のおしつけが強まり、教師の自発性・創造性の発揮が困難になっています。

A能力主義の強まりの影響

 学校や社会における能力主義が強まる中で、子 どもたちが夢や希望とは違った進路にふるい分けられています。小学校においても私立中学校への進学競争が深い影を落とし、六年生の子どもの中に変化をもたらしているだけでなく、低・中学年 から塾漬けの体制をつくっています。子どもたち は自分の希望でなく、点数によって振り分けられ、進路を「他者の力」によって決められることになっ ているのです。こうした現状の中で、子どもはちょっ としたことで「不安」「自信喪失」「絶望感」にと らわれ自暴自棄に陥りやすくなっています。それが、「イライラ」「ムカッキ」、そして「荒れ」に つながっているのではないでしょうか。

B家庭や家族の変化

 (2)でも指摘した通り、外から見ていると「経済 にも一定の余裕があり、社会的にも安定し、父母も教育熱心」と思われる家庭が、実は冷たい人間関係につつまれ、家族が互いに、憎しみ、傷つけ合っているという例が珍しくありません。
 また、そういうことがなくても、優しく、一見 愛情に満ちた言い方で「あなたのためよ。もっと勉強しようね。」と励ますことが、実は子どもには「責め」となっている場合があります。それは、「真綿で首を絞める虐待」などとも言われています。「あなたのため」という前提が、説得力を持てば持つはど、子どもはそれに反論できず、「自分」を責め続け、たまらなくなって「荒れる」のではないでしょうか。こうした「責め」は、直接には父母によってもたらされますが、それは「父母が悪い」ということではなく、父母もまた競争的な社会状況の中にあって常に「責め」られています。「子どもができないのは父母の責任だ」と か、「子育てがうまくいかないのはすべて家庭の責任だ」と直接、間接に「責め」られているのです。それが、子どもへの「責め」になっているのではないでしょうか。とりわけバブル崩壊後のリストラ、合理化など日本社会の厳しい現実の中で働く父母の厳しさ、忙しさ、苦しみ、悩みは深刻 です。今日の家庭が多かれ少なかれ、この荒波にさらされていることが、子どもたちの「荒れ」と深いところでつながっているのです。


C消費欲望の肥大化

 今日の大量消費社会、消費の過剰化社会における欲望の肥大化などの社会病理が子どもに現れて いる、という点です。子どもたちは商業主義にさ らされ、欲望が肥大化させられ、常に欲求不満に陥ったり、他人との違いを必要以上に気にして 「不安」と「イライラ」を募らせています。商業主義がつくり出す「流行」にふりまわされ、人と少しでも違うと不安になり、時にはそれが「他者攻撃」に転化したりします。

D商業主義におおわれる子どもの「文化」

 商業主義と深く結びついた今日の「子ども文化」 は「売れる」ためにますます刺激的になってきています。(2)でも見たように、暴力・殺人をゲーム化し、そのことを何とも思わない感覚が日常的につくり出されています。ゲームのつくる仮想現実 (バーチャルリアリティー)の中にどっぷり浸かる中で「ゆっくりした思考」を介さない暴力・い じめが増えているのではないでしょうか。

E幼児期の子育ての変化

 幼児期の子育て、幼稚園・保育園の変化が低学年の子どもの大きな変化に関係している点です。 「自由保育」と呼ばれている幼年教育・保育の指導方針が低学年の「指導困難」と結びついている 可能性があります。「子どもが、その日やりたい ことを決め、教師がそれを援助し、続けさせる」 という「自由保育」を体験した子どもにとって、 「はい、一時間目は国語です」「次は、算数です」 という学校生活の枠組に慣れるのに時間がかかるばかりか、「好きなことを好きなようにしていたい」という思いが、これまでの子どもにないような拒絶反応を起こし、今日の低学年の「指導困難」 の一因になっているのではないでしょうか。

 以上、子どもの「新しい変化」「荒れ」がどこ からきているのかを見てきましたが、まだまだ充分に解明されたとはいえません。さしあたり言えることば、規制緩和と競争主義を軸にした新自由主義的政策と商業主義の深化・拡大が子どもたちの生活を変容させ、その内面に様々な困難を生じさせている構図がつくられているということです。



第3章 低中学年の困難とその克服の方向

(1)はじめに

 小学校高学年の「学級崩壊」がマスコミをにぎわす一方で、その頃から学校現場では「走り回る低学年、わけのわからん中学年、幼すぎる高学年」 と、教師たちの戸惑いが自嘲気味に語られ始めていました。当初の「学級崩壊」は、5・6年生で集中的におこり4年生にまでおよぶものでしたが、低・中学年には崩壊と呼ばれる現象は見られなかっ たために注目されることはありませんでした。また、学校現場でも「大変だ、大変だ!」と言われる高学年の陰に隠れるようにして、低学年の子どもたちの指導の困難さはあまり語られることはありませんでした。同じ学校にいながら低学年担任 と高学年担任の教師たちは、お互いをもどかしい思いで眺めあいながら………。

 高学年での「学級崩壊」といわれる状況は、学級として保たれてきた社会的集団的なルールの崩壊と、指導する先生と子どもたちとの関係の崩壊でした。指導困難な学級では、子どもたちが集団で担任の教師を排斥し、ときには攻撃し、「いじ め」の対象にまでしてしまいました。高学年になって突如としておこる「学級崩壊」は、学級を一人で担任している教師の指導能力や責任だけが問われるという事態をひきおこしました。その一方でマスコミは、子どもたちの変貌ぶりを猟奇的にク ローズアップし、その原因を家庭や親たちに押しつけてはばかりませんでした。

 私たちは、「崩壊さえしなければよいのか?」 「困難な状況を子どもたちの側からの課題提起と受けとめるとき、学校はそれに応えることができているのか?」「子どもが悪い、親が悪い、だけでことはすむのか?」などと問いながら『子ども 観・指導観の転換』をキーワードにこのような現状を見つめ直してきました。そして、「学級崩壊」 だけが問題なのではなく子どもと教育の現状こそが問題なのであり、小学校全体を視野に入れて、低学年やそれ以前の教育までトータルに眺めるこ とから始めたいと考えました。

 この章では、《子どもたちの変化》 《学校・教師と子どもたちとの「距離」》 《子どもを取りまく親や社会の変化》とそれからくる困難を具体的に確かめながら、《その克服の方向》を探りたいと思います。


(2)子どもたちの変化

@ざわめきの中の一年生 −低学年の子どもたちの特徴−

 学校現場の先生たちからよせられた低学年の子どもたちの特徴を見てみましょう。 @授業が始まっても、すわって用意できない。A 常にゴソゴソする(多動)。B授業中に立ち歩く。 C大声で関係のない話をする。D突如、奇声をあげる。E注意されても、平気。F教室から勝手に出ていって、もどってこない。G消しゴムやパンやプリントなどを丸めて投げる。H何もないのに、 たたいて回る。I赤ん坊のように手放しで泣き叫ぶ。Jすぐパニックになる。K食べ物の好き嫌いが激しい。L教師だけでなく高学年や友達の指示に従えない。Mちょっと触れただけで、なぐりかえす。Nまわりと隔絶している。O失敗やまちがいを極度に恐れる。P繊細で、大人のような気遣いで疲れてしまう…。

 これを見ると、思い当たる子どもがきっと一人や二人ではないはずです。じつは、学校からだけではなく幼稚園や保育の現場からも似たような子どもたちの変化が報告されています。@あいさつやかたづけなど基本的なことができない。A言動が粗暴になっている。B何かあるとパニック状態になる。C保母に異常に甘える…。そして、自己中心的な子どもに対する『ジコチュージ』という呼び方は、じつは保育の現場から始まったもので した。

 このような子どもたちが今までも見られなかったわけではありません。しかし、現在はこのような子どもが確実に増えてきており、その特徴も極端になってきています。量的な増大がもたらした変化を具体的にあげてみましょう。たとえば、入学式です。少し前の、緊張しきって固くなった面 もちの一年生に代わって、騒然としたざわめきの中でリラックスしつくした一年生が一触即発の雰囲気の中にいます。教室のなかでは、まず席に着 かせるまでが大変です。まさに『走り回る低学年』 です。そして、テンションが異常に高く、教師の一言でときには蜂の巣をつついたような状態にも なるのです。

A親の前では「良い子」に変身 −子どもたちの「質的」な変化−

 量的な変化と同時に注目されるのは、質的な変化です。失敗やまちがえることを極度に恐れる子。 繊細で、大人のような気遣いで疲れてしまう子。 保育の現場からも、以前は「先生の前で良い子、 親の前で甘えん坊」でした。しかし最近では、保母さんのなだめるのも聞かずにむずかっていた子が、迎えにきた母親の姿を目にしたとたんに泣きやんで、親の前では変身する「良い子」が報告さ れています。質的な変化というとき、その多くが人間関係の感じ方の変化であることに注意しなけ ればなりません。人間関係の感じ方そのものがつくられる幼少年期の変化であること、またもっとも基本的であるはずの親子関係における変化であることを考えると、「自由保育に問題あり」と言ってすませたり、子どもが悪い親が悪いといってす ませられる問題ではない何かがおこっていると思 わずにいられません。


(3)広がる子どもと学校・教師との距離

@ゆとりを奪われた低学年

 このような子どもたちがいる教室の授業が、いや学校での毎日がどんなようすなのか、その困難は想像に難くありません。授業を始めるまでが大変です。まず、席に着くこと、教科書やノートを机の上に出してきちんとおくこと、だまって話を きくことができなければ授業は始まりません。きちんとできない子がいれば、その子のそばによっていっしょにしてやらねばなりません。きちんとやらない子がいれば、叱らなければなりません。 その子がすぐにできればよいのですが、他の子ど もたちが待ってはくれません。教室のあちこちで声があがり、トラブル発生です。なぜそうなたったか、トラブルの原因を問うているうちに、今度 は別のところで奇声があがり、教室全体が黄色い声で膨れ上がります。大声で、ともかくもその場を静めねばなりません。担任の教師の苦労は、なみたいていではありません。

人間らしさは時間をかけて

 以前ならば、このような事態を引き起こした子ども一人一人に時間をかけて余裕を持って相手になることができたのですが、多忙化が極度に進行 し、学習内容が過密になり難しさもいっそう増した教科書を教えなければならない低学年の先生にそんなゆとりはありません。気を緩めるとどうなるか分からない不安から、ともかくきちっとさせることを第一とし、いきおい、脅迫的で管理的に ならざるをえません。能率と効率を時計と勝負し ながら追求せざるを得ない状況は、「ムダ」といっしょに「ゆとり」も奪い去ってしまいます。指示する教師と指示に従って行動するだけの子どもたちという関係の中では、自我を発達させる人間関係は育ちません。価値観や世界観つまり人間らしさは、強制のなかでつくられるものではありません。豊かで暖かな人間関係のなかでじっくりと時間をかけて子ども自らの手でつくりあげられるはずです。

信頼感が育たない

 前述のような子どもたちにとって、学校が陥っているこのような現状は、彼らの「特徴」をクローズアップし『不適合』を様々な形で増幅しています。以前の学校であれば、ゆったりと流れる時間の中でおだやかで柔らかな人と人とのふれあいの中で、「特徴」を先鋭化させることなく、育っていくことができました。たとえば登校拒否傾向を持つ子どもは以前にもいたはずです。集団になじめない彼らは、今日、一度集団からリタイアし、暖かで真に人間的な関係を家族の中で見いだしてやがて集団に復帰するという経過をたどります。 以前の学校ならば、教室の集団の中で生きていけ る自分を見いだし、自分を育てていけたはずです。 それだけの豊かな時間と暖かな関わりの「ゆとり」 が学校にはあったのです。

 低学年でこそ大切なものは、大人への信頼感、 仲間への信頼感、そして自らが発達することへの限りない期待感ではないでしょうか。「先生っていいな」「友だちっていいな」「勉強って楽しいな」 をたっぷりとからだ全体で味わうことによって、 そこから豊かで堅固な自分を育てることができます。低学年での学校生括をとおして、子どもたち は周囲を信頼しその中で生きていく自分に自信を持てるはずなのです。

A遊びをこわす中学年

 低学年で先生を手こずらせる子どもたちこそ、 「先生っていいな」「友だちっていいな」 「勉強ってたのしいな」を味わう必要があるのですが、学校がおかれている現状の中では、「先生からも」 「友だちからも」「勉強からも」切り捨てられる危険性の方が大きいのではないでしょうか。「先生には叱られ、友だちからは嫌われ、勉強はわから ない」低学年を過ごした子どもたちが中学年になっていきます。

 おもしろければ何でもいい、面倒くさいことば 嫌い、粗暴さにも拍車がかかり、悪のりすればきりがなくなります。文字どおりのギャングです。 このような子どもたちは遊びさえ成立させることができません。学級遊びをしようとしても、気に入らない遊びには参加しません。仕方がないからと気に入る遊びに決まります。始めは調子よく遊んでいますが、自分が負けたり、失敗したりすると平気でルールを無視します。だれかが注意しても聞き入れず、しつこく注意すると遊びそのものをこわしにかかります。授業中はどうでしょう。 ノートは取らず、手遊び、落書き、机を傷つけ、友だちにちょっかいを出し、気が向けば教師や友 だちの言葉尻をとらえて大きな声で茶化します。

 もはや教師の一言で収拾がつく事態ではありま せん。「先生は嫌い」「友だちも嫌い」な子どもの行動を規制することができるのは、その子の力を上回る力しかありません。先生を先生として受け入れ、友だちを友だちとして受け入れる人間関係の上に立って、自分の行動をコントロールするこ とができないのです。低学年で育てられずに来た 「大人への信頼感」「仲間への信頼感」はさらにいっ そう育ちにくくなり、周囲の世界への信頼感はさ らに崩れていきます。

いらだちの中の育ちそびれ

 加えて、事態をさらに複雑にしているのは、 「勉強のよくできる子」が学級運営にもたらす問題です。学力の二極化が進んでいます。塾で勉強、 学校は息抜きという子どもたちはもはや珍しくありません。学級の「荒れ」をリードするのが前述 のようないわゆるギャング的な子どもたちだけで なく、勉強のよくできる子が重要な役割を果たしているケースも報告されています。遊び感覚の 「いじめ」「いじめられ」の関係の中で、自分だけ はいじめられないように人を動かしうまく立ち回っ たり、授業が成り立たないこと、教師を困らせることを楽しむかのように騒ぎを煽ったりするのは、 低学力の子どもたちよりもむしろ成績のよい子に多いという報告もあります。「学力」をつけるためだけに費やされた幼児期ゆえに、多くのゆがみをかかえていることも考えられます。自我の形成期である幼児期をどのように子どもたちが過ごしてきているのか、慎重に見ておかなければなりません。

 共通の利益や一人一人が大切にされる価値観に よって成り立つ集団ではなく、いじめいじめられの『力』だけがよりどころとなる集団のなかで、 子どもの『力』が教師を上回ったとき、『学級崩壊』はすぐそこに見えています。また一方で、そのような集団に関わりをもてない自分をかかえた子どもたちは、普通の顔をしながら、いつキレてもおかしくないようないらだちの中で育ちそびれていくのではないでしょうか。

 人間への信頼感によって成り立っている集団がないとき、自我の発達を促し支えてくれる他者を 見いだせない子どもたちは、幼いときから自分を大切にしてくれる他者に恵まれなかった子どもたちなのです。  このように、ギャングエイジ特有の仲間意識や 連帯感をはぐくみ、そのエネルギーが社会的な規範や秩序を自分のものにしていくという中学年期の発達が保障されにくくなっているのが、現在の学校なのではないでしょうか。


(4)子どもをとりまく親や社会の変化

 社会の変化を一言で言い表すことはできませんが、今という時代を人間関係とその中で生きている個人の生活実感のレベルに限って言えば、「人が人として大切にされていない時代」と言えるのではないでしょうか。「周囲の人から大切にされている自分を感じられない時代」と言えるかもしれません。職場で、地域社会の中で、そして家庭で、わたしたち自身が大切にされている自分をはたしてどれほど実感できているでしょうか。自分を、家庭を、そして近所づきあいを犠牲にして会社のために働いてきたあげくに、その会社からいつリストラを言い渡されるか分からないのです。

 犯罪や社会的不正義の氾濫、家庭内暴力や体罰 や児童虐待の増加は、大切にされていない自分を 抱え込み、孤立し、苛立っている今の社会を象徴 しています。バブル経済崩壊後に見られるこのような事象の驚異的な増加は、切り捨てられ見捨て られた者が更にいっそう弱い立場の者に攻撃を仕掛けるしかないという時代の閉塞状況を示してい ます。程度の差はあっても、私たちも親たちもこ のような状況の中を生きているのです。

人間が人間として大切に されていない状況のもとで

 学校の状況も深刻です。教育を政争の具とする為政者の思惑によって学校現場は常に翻弄されてきました。そして、管理や統制が進む現在の学校 の中で、私たちは一人の教師として大切にされている自分をどれほど実感できているでしょうか。

  人から大切にされていると感じられない人間が、他者を大切にすることばできません。大切にされていない大人たちのつくる家庭のなかで、子ども たちが大切にされにくい。大切にされていない学校や教師たちの中で、子どもたちが大切にされに くい。困難を極める子どもたちの変化を前に、教師は、「子どもが悪い。親が悪い」と言い、子どもは、「先生も嫌いや。親も嫌いや」と言い、親は、「こんな子は嫌いや。なんやあの先生は。」と言いながら、それぞれがなす術をなくしているのではないでしょうか。政治状況や社会状況によって追いつめられている者どうし、本当は手をつながなければならない者どうしが、いがみ合うよう にさせられてしまっているのです。


(5)人として大切にされる時間と空間を −その克服の報告−

 以上、低学年中学年の子どもたちの変化と困難と、人が人として大切にされる集団のもつ役割とそれを失ったかのような学校の現状について述べてきました。発達上の課題を抱える子どもたちがそれ故にさらに切り捨てられ見捨てられていく経過についても見てきました。これからの学校が、 このような子どもたちをさらに輪をかけて大切にせず切り捨てていくことが心配されます。そうらないためにも、豊かな幼少年期を少しでも取り 戻しながら発達していけるように、人として大切 にされる時間と空間を子どもたちに保障していくとりくみが求められています。


第4章 学級崩壊・指導困難からの出口を探る

1、指導を豊かに

(1)子どもの実態をリアルにとらえる

 子どもたちが「荒れる」なかで、多くの教師が、気持ち・感情の抑制力の低下(「我慢ができない」 「わがまま」)を指摘しています。「全体の前で指導すると、反抗的になる」「一人ひとりと落ち着 いて話せば、理解できる」など、指導のかたち、 コミュニケーションのとり方によって、反応が異 なってくることも指摘されています。

 自分の気分や思いにこだわる一見「わがまま」とも映る状況には、「幼さ」、「荒れ」だけでなく、 「押しっけ」「決めつけ」に反発し、納得を得たいという思いを読みとることもできます。また、様々な事象の背景には、子ども達が、家庭の経済状況・父母の多忙・早期教育・学力競争(受験圧力)など、社会の矛盾を背負いながら必死に生きている姿を読みとることができます。

 子どもたちは「荒れる」姿を見せていても、そ うしたいわけではなく、心の中にある何かを上手に表現できなくて、そういう行動をとるしかないという「自己主張の歪み」を見て取ることができます。「荒れ」は子ども達が本当にやりたいことをするに至るまでの過程であるととらえて、子ども自身が本当にやりたいことを見通して、満足で きたり落ち着けるためにどうしたらいいかを、子どもと一緒に考えていく必要があるのではないで しょうか。

 「荒れ」という表現から子どもの願いを読みとっていくには、まず、教師(大人)と子どものパー トナーシップを築くことから出発しなければなりません。子どもたちは、教師が、自分たちをまず人間としてどのように受けとめているのか、その点にきわめて敏感になっていると言えるからです。

(2)子どもをどう見るのか  (子ども観・指導観を豊かに)

 子どもたちは、自分たちに対する否定的な眼差 し・評価をいったん感じとると、私語や立ち歩きといった形で「不信任」を表し、やがては教師の指導性全体の否定へと流れていきます。

 そんな流れに抗して、子どもとの間に信頼関係を築いていくには、まず子どもの思いを聞き届け ること、子どもたちの怒りや疑問、不安に共感し、 子どもの存在をありのままに受けとめることから 始める必要があります。そうしながら、教師の指導を一つの選択肢として提示し、子ども自身に考えさせ、選択させていくことです。

 また、子ども達はゆっくり成長するものです。 「寄り道」もします。だからいつも心に「ゆとりや、待ち (=ぼちぼちいこか)」の姿勢を持つこ とも大切です。教師は時間に追われ、たくさんの課題を抱えており、ついつい急ぐのです。しかし 子ども達はストレートには育ちません。紆余曲折があります。急いでいると、ついついそんな子どもの小さな変化を見失い、「なぜできないのか」 と悪く見てしまうことになります。

 そして、子どもは小さくても、自分の目と頭と心と体でしっかり考え判断しています。大人に負けないプライドも持っています。そうした子ども のプライドを尊重して接してやることも大切なこ とです。

 また、「子ども観・指導観を豊かに」と言って も、それは単に知識として理解するということだけではありません。それは、教師の「日々の子ど もとの交わり」という実践を通しておこなわれるのです。つまり、「子どもとの交わりのあり方」 という教育実践の事実が土台となり、その実践を通じて深められるものだと思います。

(3)受容・共感と指導・援助の統一を

 「学級崩壊」は学校・担任教師との関係で子どもに現れた現象という一面をもっています。その中で受容・共感と指導・援助の統一という指導の あり方が問題となります。 一つ目は、受容と共感の中味です。「受けとめる」、「聞いてやる」というと、子どもの言うこと を何でもそのとおりに受け入れてしまうという意味にとられがちですが、「受容」は 「容認」ではないし、「追随」でもありません。子どもを主体者としてとらえ、向き合い、「子どもの表現を通 して子どもを理解」しようとすることであると言 えます。だから、子どもの要求や主張に対するかかわり方は、その時の状況やその子の普段の行動 によって変わってきます。

 教師が指導するという場合、指導の本来のあり方は、簡単に言えば相手をその気にさせることであって、その気がないのに無理やりさせることは強制や命令になってしまいます。「こういうふう にしたらいいよ」と道は指し示すけれども、その道を歩くかどうかは本人が決める。でも、本人がそこを歩くようにもっていく − それが指導であ ると言えます。だから「歩くかどうかは本人に任せて、歩かなくてもいい」というのは指導ではあ りません。教師自身が子どもにいったいどうしてほしいと思っているのか。目標は何なのか。目標につなげていく筋道が見えていればいいが、それなしに、とりあえず子どもに選択権を与えるんだということで無展望に「どうする?」と言ったり、「なるようになるわ」というのでは無責任なやり方であると言えるでしょう。

 教師の指導の目標と実際の子どもの行動とはなかなか一致しません。こういうズレがあるときに、 子どもを目標に近づけていく筋道をていねいに考える必要がありますし、同時に指導がめざしてい るものがふさわしいかということも、子どもに合 わせて随時、修正・検討していくことが必要です。


2、学校のあり方を変える

(1)子ども中心に、楽しい学校を

 今、学校は子どもたちにとって楽しい場になっ ているでしょうか?

 さまざまな 「きまり」、子どもを追い立てるような学習課題、ゆとりのない学校生活等の中で、 子どもたちは学校生活を息苦しく感じてはいないでしょうか。

 子どもたちがどのような目標を持って、どのよ うに生きていったらよいかをしっかり考え、友だちといっしょにくつろいだ環境で日々を過ごせるためには、学校そのものを「子どもを中心に、子どもに合わせて」変えていくことが大切です。そ のためには「きまり」や、教育課程、授業や休憩の時間の取り方を含めて、全校で見直しや改善を行い、学校生活がもっと「ゆとりと自由さ」を持てるようにすることが必要です。

(2)子どもの参加、意見表明を大切にしよう

 学級崩壊に直面した先生から 「『子どもの本音 が出せるクラスづくり」に取り組んで、一度は崩 れかかったかに見えた子どもとの関係を新たに作り直せた」という話を聞きます。「本音で語り合い、聞き合う関係」を大事にした実践の結果ではないでしょうか。学校に、子どもが「本当のこ と」を言える自由を広げる中から、子どもの声を 聞きとるシステムと、それを学校運営に生かしていく取り組みを進めて、子ども自身が主体的に学校参加する方途が考え出されて行く必要があります。
  「子どもの権利条約を生かした学校づくり」とはどのようなものでしょうか。一つは、学校教育全体が子どもの人権を保障するにふさわしい内容で運営されることであり、二つ目は、子どもが 「権利行使主体」としての能力を獲得できるよう に育てていくことです。この「権利行使能力」には、@自己を表現する能力の形成A市民的自由に関する権利の行使を保障する能力の形成、B自ら の権利への理解、という内容が含まれています。

(3)「学校の決まり・指導」が子どもとズレていないか

 「勉強に不要なものは学校にもってこない」 「筆記具は鉛筆で。シャープペンはだめ」など、 教師にとっては「当たり前」のきまりや習慣が、 「当たり前」でなくなりつつあるといった声が聞 かれます。「学校が伝統的に大事にしてきた常識・習慣・規律・文化と子どもの感覚との間にずれが生じてきており、それを学校や大人の視点から見ると 荒れ″ に見える」という指摘もあります。 ここには、学校の習慣や規律が、子どもたちにどのように映っているのか、学校・教師の子どもの見え方を、問題にしていかねばならないことが示 されています。

 ひとたび、学校の外の社会に目をやれば、機能的には大差ない多種多様な商品が出回り、デザイ ンや雰囲気で商品を選ぶことが日常化しています。 服装など一定の流行はあるにしても、“○○ファッション”というように、様々なスタイルが併存し、趣味が違えば異様とも映る装いも、センスの違いとして容認されています。そうした中で子どもの価値観も多様化し、それに合わせて、従来の画一的・指導、きまりの中味の再検討が求められてい ます。たとえば、@子どものファッションや持ち物にかかわることについては目くじらをたてる必 要はない。これは問題行動ではなく親や大人との合意の問題にすぎない。A他人に危害を加えるも のは明らかに問題行動であり、緊急避難的な対応 も必要。Bシンナー・タバコ等に対してはきちん と教育することが重要、など。問題点を整理し、 子どもの指導に当たることも重要です。


3.子どものための教育課程づくり  学校づくリ

 子どもたちは、@勉強がわかるようになりたい。 A友だちと楽しく遊んだり、語り合いたい。B自分のことを認めてほしい(今を輝きたい)。とい う願いを持って学校に来ています。その願いに応える学校づくりをすすめることが、「荒れ」をエ ネルギーに変えていくのではないでしょうか。

(1)「わかる楽しさ、できる喜び」を子どもたちに

 詰め込み教育の中で「漢字や九九を早く知って いることが頭がいい」というような学力観が、子どもたちの中に広がっています。知らないことが、知りたい、という好奇心になるのではなく、恥ずかしいことやダメなことのようになってしまっています。学校生活の大半を占める授業こそ、わかることや、友だちと考え合うことが喜びとなり、子どもたちが生き生きとなる時間にしていかなけれ ばなりません。

 自分の足で何度も歩いて地域のようすを見て回 り、クラスのみんなで気づいたことをまとめていくような地域学習。まわりの農作物の成長とお百姓さんの仕事を見ながら、自分たちの育てた作物 の生長や収穫を喜ぶ理科の授業。手作りのものさ しやペットボトルで作った体積測定器などで、じゃがいもや人参を実際に計ってみる算数の授業など、机の上だけでなく、体験や経験を通して学ぶことがこれまで以上に大切になっています。

 教育課程の機械的なおしつけに抗して、目の前 の子どもたちに照準を合わせた自主的な教育課程 の編成や授業づくりをすすめていくことは、子ど もと教育を守っていく大きなたたかいとなってい ます。

(2)自分を表現する力を

 「物語の人物の気持ちは主に高学年で」(小学校国語)というような新学習指導要領なんてとんでもありません。子どもたちは、いろんな思いで物語を読みすすめます。感じたことは、ことばで しゃべったり、表現したりします。

 生活の中でも同じです。一人でゲームというのでなく、友だちとの遊びの中でこそ、うれしかったり、悲しかったり、泣いたり笑ったり怒ったり…。 豊かに感じる心と、自分の思いを表現する力を育 てていくのだと思います。

 言うとおりにしているのを「いい子」とするのではなく、子どもの思いを、日記や作文やお話の中から受け取っていきたいものです。今ほど、生活綴り方の実践が求められているときはない、と言っても過言ではありません。

(3)仲間といっしょに

 約束しないと遊べない。小さいときからのスポーツ少年団。塾や習い事で忙しい…。

 今、子どもたちの中に、自然の中での遊びや自由な遊びが減ってきています。その結果として、気をつかいあい、表面的な人間関係になっている傾向が見られます。

 ああいう風になりたいと憧れることのできる仲間、僕みたいになってごらんと導ける仲間、ライ バルとして、励まし合い競いあう仲間、そんな仲間がいてこそ、子どもたちは何かやりたいというような意欲をもつことができるのではないでしょ うか。

  日常の遊びを中心として、つながりを深めたり、関わりを広げたりしていく仲間づくりが、学校に求められています。

(4)子どもが主人公の行事を

 教師の思いが優先する行事ではなくて、子どもたちが、自分たちで考え、自分たちですすめていき「ぼくらの力でやった」という達成感を育てる 行事にしたいものです。

 また、決めるときも、反対意見や修正意見も出 し合い、十分な話し合いで、一つのことを決めていく力も育てたいものです。

 児童会行事でプールにいかだを浮かべたり、段 ボールを集めて迷路を作ったり、大きな仕事を子どもたちに任せてみると、生き生きとして大人が 思う以上の力を発揮するものです。

(5)教職員が本音で話せる学校に

 「子どもは失敗やまちがいを繰り返しながら、 学び・成長していく主体です」という職場の雰囲気が大切です。

 教科学習についても、生活指導においても子どもたちのようすや教師の失敗が気軽に話せてこそ、展望のある指導が見つかるものです。教職員にゆとりがなかったり、子どもたちの問題を担任責任論で処理していくような学校では、教職員が生き生きと教育実践をすすめることばできません。子どもたちの実態をふまえて、休み時間をたっぷり ととれる校時変更など、教職員の創意・工夫が生かされる学校運営が求められています。

(6)教育条件の整備を

 30学級の実現、教職員の大幅定数増、教師の授業持ち時の軽減や専科教育の実施など教育条 件の整備は、子どもたちにとっても、教職員にとっても豊かな教育を生み出す根本です。また交換授業の導入が学級崩壊克服の一つの契機となったと いう実践も報告されています。これによって担任 が教材研究の時間を確保したり、余裕をつくるこ とにもなりますし、何よりも複数の教師の目で子どもを客観的に見たり、担任が気づかなかった子どものよさを発見することにもなります。集団と して子どもに対応することが可能にもなります。 校内操作で実現するだけでなく、教職員定数改善 とあわせて制度化していくことが必要です。

(7)父母の参加と共同の子育てを

 子どもたちの育ちの場は、教室や校内にとどまるものではありません。現在の「子育て」の困難 に真に立ち向かうためにも、父母や地域との共同 が重要である事は言うまでもありません。父母や地域にとって「開かれた学校」「取り組みが良くわかる、風通しの良い学校」を実現し、教職員・父母・地域との交流を図り、三者が一体となって、 「子ども中心の学校」づくりを進める必要があります。

 父母・地域の中には、PTA活動や地域の諸団体の活動を通じて子ども達の育成や教育環境整備 に積極的に関わろうとしている人たちが多い反面、地域的なつながりは比較的薄く、各家庭での子育ての断絶や孤立化も見られます。少子化の中で 「あまやかされて」自立の力が十分につかないまま育っている子どもも多いし、また、両親の多忙 やシングルの子育ての中で、中には家庭での生活指導が十分になされないままに育ってきている子どももいます。また、差別や偏見など封建的なものの見方や考えが子どもたちに影響を与えていたり、家庭内での体罰・虐待も少なくありません。 また、学習塾や習い事に通う子どもも多く、中に は連日、夜遅くまで時間的拘束を受けている子も います。

 そうした家庭や地域の現状から、子どもたちが人格発達上の「ゆがみ」や「未熟さ」を、合わせ持っていることは容易に想像できますし、こうした面でも学校内だけの指導にとどまらず、父母・地域との共通理解と、協力を得た取り組みが不可 欠の要素となっています。

 そこで、学校では「子ども自身の姿・要求・おかれている状態をリアルに把握」し「父母・住民の地元学校への願いや要求は何かを把握」する中で、学校が子どもに対してどのような力をつけようとしているのかや、学校の取り組みを伝え・返 していく中で、協力関係を作り上げていく必要があるのではないでしょうか。「学校教育に父母の協力を得る」というスタンスから、「学校(教師) と地域・父母との共同のとりくみ」というスタン スへと転換する必要があります。


第5章 地域の協同関係の中に学校を

−−連携・協力の発展で「学級崩壊」問題を解決し、学校づくりの新たな段階へ−−

(1)学級崩壊の背後にある、現代の生活問題についての学習を

 競争社会、消費社会、効率社会などと言われるように、現代は、ゆとりや創造性が希薄な時代です。「学級崩壊壊」現象は、そのような時代・社会 が、子どもたちの行動に映し出されたものに他なりません。そこには、ゆとりや人間への信頼、生きることの喜びを求める子どもたちの願いがこめられています。そんな子どもたちの願いは、おとなたちにとっても切実なものです。生活の商品化、人間関係の希薄化といった現代の生活問題について学びあうことによって、子どもとおとなの願いの共通性を実感し、現代の子どもたちに対する肯定的な見方、共感的理解を広げていくことが、問題解決の第一歩であり、今までの教育運動が大切 にしてきた学校・教師と父母の協力関係を、今の時代にふさわしく発展させていくための出発点です。まずこの点を明確にしておきましょう。

(2)暮らしの協同の取り組みへの参加を

 参加・参画、ボランティアをキーワードに、女性、高齢者、障害者などそれぞれの権利を守り発展させようとする運動が、地域では様々に展開さ れています。子育てや教育の担い手がそれぞれの運動に参加しています。子どもと教育をめぐる運動でも、要求の実現を行政に求めるスタイルだけでなく、自分たちのボランタリーな活動によって協同の活動の中身を創り出しながら、行政にもパー トナーシップにたった「参加」を求めるのスタイ ルの活動が広がってきています。学校中心、PTA活動という枠をこえて、教育運動もリニューアルの時です。

(3)今求められている  教育協同のスタイル

 −教育懇談会で子どもの生活実態についての学習を−

 能力主義社会における競争のための差別・選別 機能を担わされた学校に対する批判から、(そこでは、民主的な教職員運動と一体となった住民運動として教育運動が広がる可能性があった)、父母の教育権・子どもの権利に依拠し管理主義的な学校のあり方を批判する段階を経て、今日学校批判は、学校を相対化し、選択の機会の拡大を求め るものまで、その幅と質を変化させてきています。塾を認知し、教育への民間事業者の参入を是認する教育政策は、公教育としての学校の「相対化」 を押し進めています。

 そのような状況において、学校・教師が中心と なった(学校・教師が呼びかけ父母が受け身で参加するような)「教育懇談会」では、父母の要求 に応えることも難しく、家庭の教育力の回復も期待できません。父母、教師、地域住民(子育てO B)が対等の立場で参加し、共通の材料で学びあうような活動スタイルの工夫が大事です。学校、家庭、地域それぞれの場で、子どもの生活ぶりについての情報と意見の交換を進めていきましょう。 その積み重ねがあってこそ、相互の交流、協同の取り組みも実りあるものになります。

(4)父母交流のきっかけづくりを

 高度経済成長の失速、日本型企業社会の再編 (激しい生き残り競争と合理化、生活隅々への企業支配の浸透)が進む過程で育ってきた世代が親 になりつつある現代、「親同士」というだけで、共通理解や素朴な連帯が自然と生まれる状況では ありません。バブル以後の所得格差の拡大、リス トラ・就業形態の不安定化などによって、市民生活の階層分化が進んでいます。また、商品社会の成熟によって、個を中心にした生活スタイル、生活感覚が一般化しつつあり、親世代が自分自身の自己実現、生活の 「充実」に強い関心を寄せ、子育てが必ずしも家庭生活の中心的価値とはならない状況が生まれています。子どもを持たない、結婚しないという選択をする若い世代の増加はそ れを象徴しています。

 このような状況のもとで、子育ての環境・条件を豊かにしていくためには、「おとな(親世代) が楽しめる父母の交流」といった観点も今まで以上に大切にしていく必要があるでしょう。

(5)子育ち・子育て・教育  −子どもの企画に大人がのる−

 大人が考えるいいものを子どもに与える(客観的に価値あるもの)だけでなく、子ども自身が意味を見いだす活動に、おとなが参加し、その内容 を共有するような取り組みも必要です。子どもが育つために、親・教師が協力しあうという発想に代えて、例えば一つの行事を通じて、子ども・親・教師それぞれが何を獲得するかを目標にするような取り組みを考えてみましょう。それぞれが楽しむ、楽しみを共有する、対等な関係をイベントを 通じて実現すると言っても良いでしょう。

(6)学校を地域の協同関係の中に

 −−児童館・学童保育所、少年団、子ども会など、 地域子ども組織と教職員団体(組合、サークル、研究団体など)の交流 (情報交換)を−−

 このようにして、地域の教育的組織化を学校を 中心に図るのではなく、地域に学校以外にも子育て・子育ち・教育の拠点となる、施設・組織を、そして何より、協同の関係をつくっていくことを しっかり柱に据えて、いくことができれば、「学級崩壊」、子どもたちの「荒れ」も、その根本から克服されていくはずです。




(あとがき)

 「学級崩壊パンフ」第二集を発行する話がまとまったのは98年10月、京都教研の準備の会議のときでした。以来、10回ほどの研究会を重ね、ようやく発行に こぎつけることができました。

 この間、京都市教委の「学級崩壊未然防止専任サポートチーム」の設置(99年4月)、「学級崩壊」対策としての退職教員を非常勤講師として派遣する計画の発表 (2000年度当初予算の概算要求)、文部省が国立教育研究所に委嘱しておこなっ た「学級経営の充実に関する調査研究」(中間報告)の発表(9月)など、「学級崩壊」問題は大きく展開しています。

 とくに前出の「中間報告」は、分析した102例のうち7割が「教師の力量不足」 が原因とする一方で、残りの3割は「指導力のある教師をもってしても、かなり指導が困難」であるとしています。この報告は「学級崩壊」が社会的、構造的な問題であることを認めたという意味では重要ですが、教師の資質向上と「学級経営」のあり方の変更などによって打開することになりかねません。

 重要なことは、「指導力のある教師でも困難」という3割をていねいに分析し課題と教訓を明らかにしていくことです。そのためにも、この冊子が積極的に活用さ れ、今後のとりくみの参考になれば幸いです。

 最後になりましたが、この「学級崩壊パンフ」第二集は以下の方々の協力を得て編集・発行したものです。多忙の中、ご無理をいただいた皆さんに感謝申し上げます。

 加藤西郷(京都教育センター、龍谷大学)、築山崇(京都教育センター、京都府立大学)、倉本頼一(城陽市・古川小)、浅井定雄(京都市・修学院第二小)、井上治夫(向日市・第五向陽小)、玉井陽一(三和町・ 五ケ荘小)、谷田健二(宇治田原町・宇治田原小)中井和夫(日吉町・細見小)、葉狩宅也(京田辺市・大住小)、 我妻秀範(京教組書記局)



                                               (1999年11月 発行)
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