トップ 年報もくじ
京都教育センター冬季研究集会2003
 
テーマ
「目標による管理」で、学校は活性化するのか・・・?
−−「学校評価」と「教職員評価」を考える−−
 2003年12月6日(土)京都社会福祉会館にて、京都教育センター「冬季研究集会2003」が行われました。以下の記録は、提出されたレジメや当日の発言をもとに、事務局の責任でまとめたものです。
 
問題提起   教員評価をどう論じるか
八木英二(滋賀県立大学)
 
はじめに
 
 「教員評価」については、今後時間をかけて,議論を煮詰めて世論を作っていくべきである。「教員評価」は教育評価の一環である。教育は価値付けであり、従来からあったもの。日本でも戦後早くからあったものだが、今日は「教育評価の時代」と言える。教育の隅々まで「教育評価」が顕在化している。現場では否定的に捉えがちで、むろん否定的な側面もあるわけだが、教育評価はどうあるべきか、と積極的に捉えていくべきものである。
 
(1)「教員評価の時代」を問う
 
  1)規制緩和+新たなregulation
    *「評価国家」の登場
  2)ヨコ(学校選択)とタテ(接続選択)の境界をグローバルになくす
    *学校と教師「専門性」への疑問
  3)教育権保障における民主的regulationのあり方が問われる
    *既得権の擁護ではない
3つのレベル:
(1)国際社会=グローバル市場 VS 教育権保障
       (教育の商品化    教育の公共性)
   ・教育効果と評価国家の登場 VS  ・WTO(GATS)への世界的対応
   ・教育基本法「改正」       ・新たな国際基準化
   ・小学校の授業料徴収       ・ミレニアムゴール(無償義務教育完全実施)
   ・教育特区
(2)教育組織=差別的複線化  VS フレクシブルな多様性と統一
   ・中高一貫制、飛び級等  VS   ・義務教育年限延長(Education for Allと一体)
   ・接続の溝、中退、放校、など   ・義務終了年齢と就労年齢
   ・卒業資格、大学入試の多様化   ・労働保障と生涯教育(資格化)
(3)教育思想・実践=接続(内容・方法)の攪乱 VS 全体的発達と市民形成
   ・「評価」と「評定」の混同 VS  ・教育実践評価
   ・小学校の英語教育        ・小(低高学年)、中、高、大の違い
   ・指導力量面の「教員評価」    ・市民性の教育(心理発達との区別・連関)
 

(2)公共性教育の激変 NPM化
 
  1)大学は必要なのか?
    大学すらも必要なのか,という根本的な提起も行われている。教育投資論をはるかに超えるものであり、日本では「日本語圏」であることがバリアーになっている。EU圏では、交流がずいぶんと進んでいる。また、「教員養成は必要なのか」といった疑念も連動している。
  2)教育商品化の一層の進行
    ユネスコ・世界銀行とWTOが深く教育に関わっている。公立学校に関わる費用のあらゆる分野に国際事業団が参入している。英語圏内であれば,全く問題なくアメリカ費用が入ってきている。これについての危機感が世界に非常にある。GATSを教育に適応することに対して反対が起きている。教育評価がグローバリレーションの「評価国家」に連動して起きてきている。
 
(3)60年代の経済合理主義(教育投資論)とどう違うか。
 
  1)「評価」と「評定」は区別する必要がある
 
○現在の動きは、「教員評価」「学校評価」「子どもの評価」すべてが連動している。「評定」と「評価」は区別することが大切だ。到達度評価でいえば「診断」「形成」と「総括」とは区別していくことが大切だ。今、「ふるまい評価」「やる気の向上に活用」「健全なプレッシャー」「関心・意欲・態度」を教職員評価にすべりこませようとしている。「評価」といいながら,「評定」をすべりこませようとしている。しかし、「自動車学校の評価」にたとえるなら、自動車学校で「上位30名合格」「意欲」などが「評価」として成立するのか。相手は、人材育成を「やる気」という形で攻めてきている。
○ヨコ(学校選択)とタテ(接続選択)の人材育成・能力開発(モラール)を強調している。「学校選択」で言えば、東京都品川区の例では「転入希望9、転出87」などが起こっている。2003年11月11日最高裁第三小法廷判決「公文書非開示決定処分取り消し請求事件」は半分成果、半分問題点だった。
○戦後直後の民主的学校評価、「学校評価は、・・・・学校の成績を点数や標語で表現することにより学校の格付けを行い、または、校長や教師の勤務成績を評定して、監督上の資料とするものではない。」と述べている。「格付けではない」「検察官ではない」が、現実は「お金」に連動している。学校の全職員が参加して行い、共同評価を行うべき。また、外部に開かれると同時に,まず内部にも開かれなければならない。
 
  2)「監査」評定と結びつけている点。
 
○さまざまな「脅し」「処分」等を含めて進行していく。イギリスでは,最後に「投下資本と見合ったものかどうか」という評価が下される。ダニエル「だれがガードをガードするのか」で、評価者の評価の正当性・妥当性を誰が守るのか、が問われる。
○全面的な感情的反発ではなく、教育の論理・条理にたったシステムをどう構築するのか、が問われている。教育実践に関わる教育評価の特殊性について議論がなされなければならない。
 
  3)世界競争主義と成果主義(パフォーマンス評価)が結びついている点。
 
○子どもの発達と学校教育の公共性、公共とは「開かれた」という意味で,公立・私立の対立ではない。
  1:職場仲間の信頼が損なわれる。
  2:「監査」に対する病的恐怖、失敗をおそれる消極的態度(教育はチャレンジであり,失敗をおそれない積極性である)
    社会の様々な事件に対して,教師は「結果責任」を持つものではない。
  3:変化する多様な時間と文脈の意義を失う。4:反省的アカウンタビリティを失い,民主的教育価値を失う。
 
(4)日本型動向の特徴
 
  1)日本型NPM=官僚統制の厳しさ

  2)イギリスの後追い=教師養成面で

(5)「教員」「評価」の展望
 
  1)教育専門職構想の新たなベクトル【「同時性」の二側面の重視】

○教師の社会的役割の変化を見つめる。教員の側が、どう教育発信していくのか。共同意志決定=「開かれた当事者・関係機関」の規律づくりの大切さ。実践を高め合う=接続問題からみた専門職性。また、従来の教育委員会でいいのか、ということが問われている。出資者(株主)の口出しを前提に議論する者も多い。行政の民主化が「抱き合わせ」で問われている問題である。
 
  2)教師の力量

○教師の力量が評価論としてどう論じられるのか、実践過程に即して、教師の力量が問われなければならない。それは「構想」段階にもっともよく現れるのではないか。しかし「結果責任」は問われるものではない。
○接続選択を攪乱されている問題があるが、そういう点での研修・議論が大切になる。教育の習得と「資格」の問題が,大きく浮上しつつある。
○就労を展望した学校教育の抜本的な組み替えを(イギリスでは)行っている。そこの教育の専門家としてどう関わっていくのか。
○行政からの「教員の研修」の重視、は「教師たたき」と連動した形でだされているが、これは頭から否定すべきことではない。教師は「勉強したい」「教材研修をしたい」と思っている。参議院でも「1時間の授業に,1時間の授業準備」といっているが、実際はそのような対応になっていない。今日の時代に見合った「研修」のあり方を検討していかなければならない。私は単純に教員が倍になったらよいと思っている。
○本格的に教育の再建運動を進めていく必要が生まれている。国内外の世論を。
トップ 年報もくじ