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第6分科会(31日)
 
子どもの発達と地域
 
松井 信也(京都学童保育連絡協議会)
 
1、特別分科会のこれまでの経過
 
 地域の中で子どもたちを育てていくという運動は「子どもを守る連絡会」など様々な団体があってそれなりの運動をしている。しかし、子どもたちが地域の中でどういう生活をし、どのように発達していっているのか、それが学校教育ともどう関わってくるのかという点では、実践交流の場が京都の運動の中でなかったのではないか。
 子どもたちの発達というものを「学校」やとか「地域」という枠ではなくて「全生活」という視点の中で捉えなくてはならない。
 数年前、「児童館問題研究会」がつくられ、地域の中で児童館や学童保育の果たす役割を学童保育運動という枠だけではなくて、様々な分野の方とも学習交流を深めていこうと、少年少女センターなどの運動も含めて交流してきた。そして6年前から「やまびこ座」「こども音楽会」や地域のネットワーク組織も加わり、地域が持つ意味を何とか明らかにしていくために「特別分科会」をもつに至った。
 しかし、未だ「特別分科会」という位置づけにも見られるように地域は「特別」であり、現場の教員の参加がほとんどない中で、地域で細々と頑張っている人たちが、地域の実践交流を中心に子どもたちの問題を論議してきた。例えば、これまでにも「原谷」地域での取り組みや「親子劇場」「地域での子育てサークル」のお母さん方のネットワークづくりなど様々な取り組みが語られてきている。
 
2、学校現場の「大変さ」・・・(池添 廣志さんの報告)
 
 <厳しい管理下にある教師>
 夏休み前に要請票を出すのだが、管理が非常に厳しく強くなってきており、自宅研修を取りにくくさせる状況が沢山出てきている。一昨年までは「自宅研修計画」を1枚の紙に「何月何日、どこでこんなことをします」と書くぐらいだったのが、昨年は1日に1枚の紙に自宅研修「報告」を書かなくてはいけない。例えば自宅研修を10日間取ると10枚以上のレポートを書いて付属資料をつけて出せとなって、今年は研修「計画」も1日1枚毎日分出すことになった。嫌になって自宅研修を取る教師がうんと減った。ある学校では、自宅研修は取りにくい、そしたら年休取るしかないが年休取ることについても文句を言う、年休は権利であるにもかかわらず取りにくいような状況にさせる。夏休みでも毎朝8時半から出勤させて、職員打ち合わせする学校がある。毎朝「おはようございます」ぐらいで終わるが、10分でも遅れたら「遅刻なのだから、届け出しなさい」と言う。このような形での管理というのが強まっている。私もこの夏休みの自宅研修は7日間ぐらいだ。親から情報公開を求められた場合に「この教師はこうこうです」と答えるための資料がいるという名目のもとにそういう文書を書かせているという理由をつける。週案を毎週出せというということとも関わって、毎日毎日の生活が大変になってきているというのが教師の現状ではないか。学校によって大分違うが、そういう方向にある。
 
 <今より大変になる?5〜6年先の子どもたち>
 
 子どもの問題でも大変な状況が出されている。夏休み中のある研究会では、半日分を生徒指導に使っているが、今年は半日では足らず1日の3/4使って子どもの交流した。どの先生も、とにかく話したいことがいっぱいある。各学年3クラスあるので1人5分でと決めても5分で終わる先生はほとんどいない。自分のクラスの子どもや親の大変な状況を語っていく。
 その中で強調されていたのが、今の子どもは大変だが5〜6年先の子どもはもっと大変になるという話だ。理由は、子どもと上手く関わっていない親が非常に多い。いまの若い母親たちの幼稚園にいく前後の子どもたちとの関わりを見たとき、例えば乳母車を押しながら、子どもの方を見ずに携帯電話で何かしゃべってる。子どもをスイミングクラブに連れて行くバス停で待っていても、子どもたちはその辺でウロウロしているのに自分たちの話をしているか携帯で話している。子ども自身は自分が愛されているという実感を余り持っていない。授業参観の最中に携帯が鳴ってその場でしゃべり出す母親、懇談会の最中でもメールを打っている母親がたくさんいるという。公の場で公の生活の仕方を知らない、私的な生活も公の生活も入り乱れながら生きてきている中で、子どもたちの中に生活上のメリハリとか、今何が大事なのかという感覚や知識が身についていくはずがない。
 子どもがたいへん、親が大変だけではなく、その背景は日本の今の大人の文化、日本の社会の持っているもの、それは経済だけではなく文化の問題、商品の問題、人間を粗末にするような社会の風潮や、様々な今の日本の社会の影響が若い親にも子どもたちにも出てきている、という捉え方をしないと、子どもが悪い、親が悪いだけになってしまう。
 
 <父母と手をつなぐことの大変さ>
 
 現実には子どもが大変、親が大変という中で、親と手がつなげない、親と子どもの話が十分出来ないといった状況がある。 「こういうふうに怒らなあかんで」とか「こう関わらんとあかんで」「もっと子どもを抱いてあげたら」など子育てのポイント、子どもとの関わりのポイントをもっと若い親に教えていく、それが学校の教師の本来的な仕事かどうか、という事とは別に必要になっている。現実に子どもを何とかしようとしたときに、親がもっと子どもに愛を注がなければ、子どもが愛されているという実感をもてないままでは、他の子どもを愛することもできないし、自分を愛することもできない。
 そのことをしながら、子どもとの関わりを強めていくことが学校の教師にも必要。とびだす子、暴言を吐く子などいろいろいる。親との関わりで典型的な話があった。大店舗のイズミヤに行って迷子になった3年生の子どもがやっと母親に会えた。会えたとたんにその子は親の顔見て逃げ出した。「親にしばかれるから逃げた」と言う。その子は学校の中でもとびだしたりいろいろする子だけど、親の前では敬語をきちっと使ってものすごく礼儀正しい。そういう親子の関係のように体罰などで従属させる、一方では放ったらかしにするという関係の中で、子どもと親との関係がうまくいっていない。そういう子どもが学校の中で荒れてきている訳だから、愛されていない子どもを、基本は愛しながら関わっていくことの大切さが出された。どこのクラスにもいろんな課題を抱えた子どもが沢山いる状況の中で、教師は子どもとどう関わっていくのか。何をつくりだしていくのか悪戦苦闘している状況がある。
 
 <忙しくさせられている子ども・父母・教員> 
 
 それに拍車をかけているのが学校現場の忙しさと授業時間数確保、授業内容をすすめていかなくてはいけないといった大変さがある。クラスの進度を揃えないと親からも色々出てくる、進度を揃えようと思ったら会議もしなくていけない、研究もしなくてはいけない、教師の裁量はなくなり、子ども無視の形で授業が進められていくといった今の教育課程の問題もある。
 一方で5日制の中で子どもたちも忙しくさせられている。家庭科の授業で「家庭生活の時間を工夫しよう」という単元がある。1日の自分の生活時間を書いてみて、一家の団らんの時間がどこでとれるかとか、もっと親子の交流する時間がとれるかを考えようと聞いてみたら、多くの子どもが土日は工夫のしようがない時間帯の中で生きているという話が出てきた。「先生、しようがないやん、朝起きてご飯食べたら野球で、夜帰ってくるまで野球で、その後飯食ったら風呂入って、もう寝るだけや、どこ工夫するねん」という話であるとか、 一方では「家庭生活の中では家事を子どもも分担させよう」というような勉強して家に依頼する。でもそれは「じゃまくさい」とか「させることがない」と家でもさせてもらえない。いま家庭生活の中でも子どもたちはゆったりさせてもらっていないという子どもたちの現状がある。
 
3、討議、交流より
 
<学童保育の現場より>
 
 京都市内の学童保育で指導員をしている。3年生までの子どもを見ているが、全体的に甘えてくる子どもが多い。以前は縦の集団で生活している実感があったが、今は時間もなくて、何かしてあげるという気持ちが上手く発揮できない、自分の事で精一杯。
 5日制で帰ってくる時間が遅く、学童保育で生活する時間が短くなった。ゆっくり色んな事が出来るはずの長期休暇は、今度は2学期制で大変だ。「サマースクール」は補習でなく授業と同じ扱いのようで休ませられないと感じる親も多い。朝、学童保育に来て学校の「サマースクール」に行って、帰ってきて昼食べて、また学校プールに行く。5〜6校から子どもが来ている学童保育では行事を組むどころか生活がバラバラ、学童保育(地域)での生活がなくされる。学校の先生たちが2学期制をどう捉えているのかも判らない。
 また、親との話、関係のつくり方も難しくなってきている。自分の家族で楽しめたらいい、無理やりでも役割分担しないと会長のなり手もなく保護者会も成り立たない。学習会や交流は嫌がったり参加が良くない。楽しい取り組みをしながら交流し、親のつながりをつくっていく努力をしている。
 
 <京都こども勉強会>
 
 小学生の中・高学年から高校生までを、主に学習指導を中心に親と一緒に運営している「京都こども勉強会」。生徒全体は市内を中心に110人くらい。小グループで勉強会を組織して、勉強会出身などの講師が月1回の講師会で交流や検討、学習をしながらすすめている。春合宿・夏のキャンプ、親子の学習交流会なども行っている。学力がなかなかつかない現実がある中で何故か言うことになると、学習指導の方法の問題もあるし、子どもたちの生活の問題もある。両面から子どもを捉えていかないといけないとなかなか学力はついていかない。
 個人勉強会から始まってクラスが5〜6名でつくる。地域に拡がって3クラス出来ると地域勉強会ができる。数年前までは個人勉強会から地域へという拡がりがつくりやすかったが、最近は個人が出来たら個人で終わってしまう。それは意識あって自覚的な親でも、忙しくて、なかなか面倒をみるのが大変になってきた。親の要求もバラバラで、それをまとめて地域の中に組織していく力が細ってきている。従来の個人勉強会から地域勉強会、地域に根をはってという方針だけでは地域勉強会はつくっていけない。地域に沿って親を組織することも準備して、方針転換していかないと親自身に期待だけしていても拡がらない。なかなか難しくなってきた。
 子どもたちの様子では特に男の子が頼りない、甘えてくる。思いはいっぱいあっても、整理して言葉で表現する力が弱い。
 
 <その他、参加者からの発言より>
 
○少年団も先細りになってきている。今まであったところでも今の少年団のことはやるが、跡継ぎをつくるという視点を持てない。すると世代交代がうまくいかないでつぶれていくところもある。子どもが減ってきて活動が出来ず衰退していくなど新たな拡がりをつくれないのが今の問題。子育ては委託してもダメで、自分たちで切り開いていくという父母が少なくなってきている。そういう父母がいても、時間や労力を避けない。指導員となる青年の運動も弱まっている。高校生はアルバイトで忙しすぎる。大学生や社会に出ている青年も忙しくて時間確保ができない。
○人形劇団の学校公演の依頼に行っても最近は担当の先生に会えるのが皆無。校門のインターホーンで「もういいです」と断られる。先生たちの大変さもわかるがどうしたら接点持てるのかと悩む。
○学童保育の大規模化がすすんで、子どもの関係でいうと安全の確保や安心できる生活がおくれなくなってきている実態や、指導員に余裕がなくなってきている実態がある。
○美山町では「ランドセルゆれて」上映運動で、民生児童委員協議会会長や老人会会長、婦人会会長、「子育ての会」会長、元農協組合長、保守系の議員や社協の職員らで実行委員会をつくり、「町に学童保育が必要かどうか」すったもんだの議論をした。とにかく地域での子育てを考えるきっかけにしようと「上映を成功させる」という一点でまとまって、人口5200人の町の本上映で350人を組織した。実行委員長の元校長が「子どもの問題で大人が変わらないと、子どもは変わらない、町は変わらない」と挨拶された。運動の中心になった人たちの中に、「町の中にネットワークができて、町の雰囲気も変わった」と確信が拡がった。
 
4、まとめにかえて
 
  学校5日制のなかで子どもたちの生活が大変になっている。一方、地域では子どもたちの生活が痩せ細ってきて、地域の中で子どもたちが育ってきた大切なものが見失われている。昔から学校と地域と家庭があって子どもたは24時間の生活の中で育ってきた。学校の中でも育つけれども地域の中でも育っていくという立場でとらえ直しをすることが大切である。学校の立場からも「地域」ということを言うが、生徒の親をどう変えるかという視点だけで「共に地域の子どもたちをどうするか」という視点にたちきれていない。  長引く不況や家族形態の多様化、社会の様々なマイナスの風潮ともかかわって、親たちも様変わりしてきている。「仮の住まい」で住民として地域を捉えない親も多い。
 一方で、若い父母もPTAの「パソコン教室」「自然観察会」などには参加してくるし、青年たちも楽しいことには参加する。親も子も身体を動かすことは昔より「得意」になっている。討論して課題を深めたり、理念と関わっていくことの体験を持たない親や青年が多い中で、学びたくなるような「学び」をどう組織していくかという課題も提起された。また、「各々の団体の組織強化をどう図るか」という座標軸で、団体間の共同をすすめていくことも大事という提起もあった。
 地域の中で子どもたちがどういう状況にあって、どういう生活をし、またどのような実践がされているのかという事をしっかり位置づけながら、子どもを全人格的に全生活の中で捉えていくことの大切さをもっともっと発信していくことが必要になっている。
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