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第2分科会(31日)
 
生活指導における自己と他者の問題
 
築山 崇(京都府立大学)
 
 今回は、メインテーマに沿って午前中加藤西郷生活指導研会員より、「沈黙」「ためらい」「悲しみ」「死」などが、生活指導においてもつ意味についてと題してする報告を受け、議論した。午後は、午前中の内容も踏まえつつ、今日の子ども・青年の問題状況を切り開く生活指導実践のあり方をめぐって、子どもの生活実態調査等も含め、子どものリアルな実態が求める教育・生活指導実践の課題を探る議論をミニシンポジウムのかたちで深めた。各パートと全体討論の概要は以下の通りである。
 
T 学習・討論:自己認識・他者認識の問題を考える
―「沈黙」「ためらい」「悲しみ」「死」などが、生活指導においてもつ意味について―
 
  加藤報告概要(当日レジュメを再録)
(1)現在の教育課題
 @教育基本法「改正」(答申)がもたらしている問題(復古主義の台頭)A「心のノート」がもたらしている問題(「畏敬の念」の欺瞞性と危険性)B最近の少年事件に対する例えば鴻池青少年担当大臣の発言(子どもを人間としてとらえる視点の喪失)
(2)本日の提案にかかわっての問題意識
 @「自己と他者」の課題は総じて人間を直接に問う学問に共通する根本問題である。Aこのような自覚の論理は哲学や宗教の論理としてこれまで深められてきたが、同様のことが子どもの自己認識と他者認識の構造として実践的にとらえられる。しかし、そのことが教育実践の場で軽く見過ごされていないか?
(3)具体的課題
 @子どもの生活(3つの他者:自然、人、自己との出会い)A具体的な検討(「生活ノート」にみられた「とまどい」「ためらい」/児童詩の実践:沈黙やとまどいを含め、一人ひとりの子どもの思いをそのまま受容しようとする教師のありようの大切さ/道徳の授業の実践)B「非行」とは何か(不良と非行・愚行と非行・死と非行:非行は道徳や犯罪の問題ではなく、存在の問題である。)C非行からの回復への指標(孤立させられて生きる子どもの現実をどう克服するか:仲間づくり・・・交わりの指導自分本位性の克服/集団づくり・・・自治的集団の形成/能動的にかかわる主体の回復/個への接近・・・自己表現力の形成/社会的共感能力の形成/家庭と学校と地域の教育力の回復)
 
 この報告の最後で、加藤氏は、「絶望とか孤独とか不安とか、子どもが日常的に陥る問題は特別なことではなく、それが普通だ、当たり前だというとらえ方が大切である」ことを強調した。
 
U ミニシンポジウム 子どもたちのいま・明日をつくる生活指導実践
 
 はじめに、コーディネータの築山から企画の意図などが説明された。(長崎での幼児殺害事件や、東京での「売春」産業の小学生への「浸透」ぶりを示す事件などが相次ぎ、少年司法のあり方が話題にされているが、子どもをとりまく今日の社会状況との関連で子どもが心の内にかかえている"問題性"を、冷静にとらえ、働きかけの方法を探りたい)その際、子どもの生活実態に見る今日的特徴として、次の3点が指摘された。
   ・生活リズムの崩れ・学習意欲(目的意識)の喪失をどうとらえるか。
   ・大人(教師・親)と子ども(生徒)とのコミュニケーションの視点。
   ・生徒の変化・実態に対応した学校体制・指導の枠組み。
 
 以下、主に高等学校・中学校の生徒の現状・指導課題について報告された。
 
(1)原田報告 「生徒の思いに心を寄せ、生徒の成長を信じて」
       −日高教シンポジウム報告より−
 
 生徒たちのリアルな実態ということでは、学校でかかえることが無理なのではないかと思わせるような実態さえある。そういう中でも、たどりついた結論は「とことん彼らとつきあってみよう。彼らの内面の成長を信じ、それにかけてみよう」というものである。そして、その実態が求める教育的課題として、次のようなことがあげられる。
・医学的見地からの把握と指導が必要な生徒が存在する。
・教師への暴言・悪態の一方で、無視しないで欲しいという願いが強い。
・激しい人間関係のストレスが子どもたちを覆っている。
・子どもたちの中に、親の対応を抑圧的だととらえている傾向がある。
・勉強ができないという持ちを根深くもっているが、わかりたいという気持ちもあ る。
*基本的生活習慣の未習得というより、医学的治療・対処が必要なケースがある。
 
 そのなかには、「発達しそびれ」、「弁証法的思考の弱さ(白か黒か、受け入れるかムカツクか)」、「異集団」と交わり理解を深める力の弱体化、共感的他者の存在への渇望、学校地への不信と「ほんもの」学びへの強い関心・要求、家庭での指導・生活に困難をかかえる家庭の割合の高さといった様々な問題が含まれている。
 
  それらが提起する教育的課題に次のような方法を工夫して取り組んだ。
・クラス新聞の発行(クラスメイトへの関心を広げる・共感的スタンスを重視し、 生徒の内面・気分を押し上げる)
・「天声人語」の書写・要約・意見を書く
・生徒の課題密着型「現代社会」の授業(思春期とは? 学ぶとは? 性の問題  進路の問題 環境問題など)
・書くことの重視 書いたものを綴じて残す(振り返りを促す)
・クラス行事、学校行事への積極的参加
・自由同好会の取り組み
 これらの取り組みには、「学び」を位置づけた指導を追求したいという意図がある。「共感的指導」だけでなく、厳しい校則で締め付けるだけでもない、子ども自身が世界を知り、みずからの進むべき方向を見定めていくような方向を目指している。
 
(2)川口報告
 
 本報告では、調査にもとづく学力や生活の実態について報告された。家庭学習時間の少なさ、夜型生活、メディア依存の生活の実態などが明らかにされると同時に、「朝の読書」の取り組みなどを通じて、生徒と教師のコミュニケーションを図りながら、学習への動機づけをねらう実践の提起がなされた。
 
 以上二つの報告を受けて、以下のような視点にもとづいて、問題状況の紹介や討論が行われた。
 @子もの家庭状況における今日的問題(経済・家族関係)(山口・横内他)
 本報告に先立って、コーディネータから、次の諸点にかかわる問題提起があった。(ア)所謂「少年事件」を生み出す関係・構造(競争主義・商品化・・・・孤立・疎外)(イ)「事件」に対する社会の反応における問題性(学校・被害者への攻撃/鴻池大臣の発言などにみられるつよい「力」への期待、あるいは、社会の"寛容度の低下""内圧の高まり"/階層化と排除の論理)
 A子どもたちの明日をつくる
 子どもたちを社会の形成者として、受け入れ、その参加を保障していく学校づくり、地域づくりはどうあったらいいのか。学校や地域での自治的・文化的諸活動をつくりだしていく実践をもとに、「人格の完成を目指す教育」の内実を問うていくことが、生活指導実践にも求められている。
       
全体討論
 
1(高校・職業科):「食を訪ねる旅」の取り組みの紹介・・・子どもたちにとって意味のある学びをつくりだしていく試みとして行った。生徒たちは、「勉強」は「努力」「忍耐」を強いられるもので、「学校の勉強は、社会に出て役に立たない」と考えている。そういう中で、将来の生活や、生徒たちの現下の関心に基づいた学習づくりを、「総合的な学習の時間」の使い方(内容編成)の問題としてどう考えるかという課題がある。
2(小学校高学年):「いろんなことを書く」こは大事。卒業生とファーストネームで呼び合う雰囲気で、語り合いながら、実践に取り組んできた。
3(小学校):「少人数学習」の展開にかかわって、教科によって分割(「同質」クラス)するというあり方は、子どもの「周囲に気遣いながら発言している」と訴えを生んでいる。そういうなかで、書いたものを大事にする実践をしてきた。
 6年3学期に、政治社会の勉強で、学ぶことの意味を伝えたいと思って、基本的人権の勉強とあわせて、真っ向から訴えた。夜間中学校のことを教材にして、学習した。最初、写真を見せて、「何の場面か?」と問いかけ、ある中学校の卒業式だというと、卒業する中学生とは思えない「生徒」に、子どもたちも興味を持った。なぜ、夜間中学がつくられたからを話し、1時間の授業ごとに感じたこと、考えたことを書きながら、生徒の作文なども読み、最後は、映画「学校U」を見た。「勉強はやらなければならないものだと思ってきた。苦痛だった。でも、世の中には、こんなに勉強したいという人もいたんだと気付いた」と、学ぶことの意味に触れる発言が聞かれた。
4(小学校):今回は準備ができなくて、前回の(生活指導研での報告の)内容は、あらためてまとめてみたいと思っている。
 「非行は、存在の問題である」という加藤先生のことばが印象的だった。自分の頭の中では、「学級崩壊」的な状況があって、「荒れた」子どもたちが、中・高と進んでいったら、どうなるのかという関心をもっている。
 F市は、私学が一定の比重をもっていて、子どもたちが輪切りにされる状況があった。 そういう厳しい中で、進学先が成績による輪切りで決まっていく実態がある。そういう子どもたちを迎えて、どういう実践をするかが問われている。小・中時代の自分にどう自信を持たせるかが大変で、劣等感が強い。前向きの姿を導き出すのに、1年以上かかる。原田報告の話を聞いて思うのは、自分に自信を持てない子どもたち、人生の裏街道を歩いてきた子どもたちが、原田先生に出会って、自分たちの学級を見つけたと言うことになるのではということである。教職員の姿勢がものすごく大きい。自分と社会との関わり、自分と学校との関わり、自分と学級との関わりが、どう見えているのか。加藤先生の話に関わるが、(人間は自己によってつくられた世界において、自己を見るというのがあるが、自分にとって、自分が大丈夫と見える世界でしか生きていけない。そういうことを学校の中で、真剣に考えていかなくてはいけないのではないかと思う。自分が否定的にしか見えない中で、「少年事件」も起きるのではないか。高校に入ったときは、否定的な学校・学級の受けとめだったのが、いま、肯定的にとらえられるようになっているのではないか。そういうクラスでもまだ自分を出せずにいる子どもたちがいるのではないか。自分と、学級とのミスマッチ。そういうことが少年事件などにつながる。今の自分が肯定的に見られる条件を、真剣につくっていかなくては、ならないのではないか。6年生を卒業させた後に、1年生をもったときに一つ考えたのは、自分たちの物語が持てるクラス。神話といってみたが。神話は、ひとつの共同幻想だが、自分を認めてくれるし、自分も友達を理解していると思っている。先生も、親たちのもわかってくれてるという、そういうクラスになってること。それが大事。そういう集団をイメージした。自分を生き指してくれる集団との関わり。反抗していくにしろ、確かな集団があることによって、自分が見えてくるのではないか。
 学級崩壊にとり組んだときに、「当たり前のことをていねいにやっていくことが大事」と考えていた。それは、読み・書き・計算、人の話が聞けて、話せる。そういう力をていねいにつけていくことを、しっかりやらなくては。学力が見えにくくなっている。高校生にとっていいかどうかわからないけど、底辺の子どもたちに、今からでも(小学校のレベルからの)取り戻しが出来るということを、わかってもらい、自信をつけることができるのではないか。今、小5を担任しているが、かけ算の九九や漢字、小数・分数など当たり前の学習ができていない。できるようになる楽しさを味わえあるようになればいいな。当たり前にやらなければならないことが、片手間になっている。ように思う。
5(高校):聞いていて、学ぶことのイメージについて考えた。問題を真っ向からとりあげて、伝えてあげないと生徒たちは、わからない。生徒が一番面白がるのは、寄せ木造りの解体。それが、百いくつもの部品になる。そんな、ことを通じて学ぶことに迫っていくことが必要。
 物語の共有ができれば、そこからの可能性は大きい。
 共有する物語をもっていないので、自己の絶対化にいっていまうのではないか。
6(高校):クラスが好きだという子は、多い。喧嘩もあるけど、色々取り組んで、自信も持ってきている。できるだけ思い出の多いクラスになって欲しいが、思い出だけでなく、進路にもつながるような力をつけないとと思う。あと1年あまりでどうするか。担任一人でできることは限られている。教育課程をつくるときに、教科の枠を越えて教員が取り組む必要がある。意見をしっかり語れる力をつけることも、それぞれの教科で取り組める。どういう力をつけるのかと言うことを、教員が共通の立場に立って、やらないといけない。総合の時間をうまく使って、こういう力をつけるという一つの柱をつくって教育課程づくりを。
 普通科ではない、農・食・花などを通して、何を身につけていったのか、職業科の持っている教育力、検証してみたい。
7(中学英語科):この夏休み、オールイングリッシュの2週間の英語研修を受けた。最後TEIFULを受けたが。研修の最後で、「日本の英語教師は、日本語使いすぎ」、「ある言語が使えることと、その言語のベースにある文化を理解・習得することは別」と発言した。
 今勤務している中学は、府内1,2を争う大規模校。学年が違うと、別の学校のような感じである。校区は、山の手、下町といった地域感覚があるが、学力は市内で多分トップクラス(共通テスト)。しかし、荒れでもトップ。以前であれば、学力の高い学校は荒れないというのが、常識だったが。「荒れ方」は、逮捕者・体教師暴力など問題件数の多さにあらわれている。今年は少しましになっている。人権を学校の取り組みの看板にしているが、暴力・いじめなどが多い。長崎に行ったり、ビキニデーの取り組みをしたりという実践にも取り組んでいる。集団づくりについては、縦割り集団で、体育祭、文化祭の取り組み。集団に対する信頼を深めていく取り組みをやっている。この間、行事の形骸化、集団づくりも形骸化が激しい。形だけ残って、セミの抜け殻のような、人でつなぐといことをしてきていない。どんな力をつけるのかが明確になっていない。消化行事になっている先生が多い。どんどん縮小の方向へ行っている。
 子どものたちの内面に触れていくと、色々見えてくるが、介入・指導(特に家庭まではいる)は難しい。
 最近、「荒れる」なかで、エスケープ、暴力、たばこ、深夜徘徊など対応してきたが、弁護士と対応することが増えている。頭髪の指導(黒染)をめぐって、親が怒って、情報公開を手段に学校を責めてくる事例もある。生徒の手を握って制止したら、、セクハラといわれたり、対応が難しい。
 子どもたちが、どこで勉強しているかというと、塾とダブルスクール。夜11時まわっても、塾帰りの子どもでいっぱい。先取り塾が多いので、学校の授業が形骸化する。わかったような気になって失敗している。塾でしっかり勉強して、学校で暴れている子がいる。
 経済的にも恵まれている子どもが、問題をおこしている。抑圧的な親の元で、「わざと表現する子」が出てきている。
 小学校で児童会の役員していた子が、中学では酎ハイ飲んで暴れているといった状況。リーダー的力を持っている子が、崩れていっている。クラス集団のなかに、プラス・マイナス要素をもった子がいるとして、集団づくりをしてきたが、プラスの力を持っている子が、他方で暴れている。中間層の子どもたちも、すごく冷ややか。分析しきれない子どもが出てきている。半分ぐらいの子どもは、わからない状態。「子どもたちが見えない」状況。集団づくりの取り組みをするにしても、そういう状態をどうするか、昔のやり方は通用しない。
8(私立高校):極端な言い方をしたら、今の生徒の状態は、大人の言うとおりにしていたら、何か未来は保障されるのかと言えば、そうではない。だから、そのことが、学校での「勉強」が入っていかない、大きい原因ではないか。そのことは、子どもたちがよく知っている。生活実態調査のアンケートの数字はそれを物語っている。学びが無意味だとは思っていない、教養は必要だと思っている、子どもたちにどう応えるかを考えなくてはと思っているが、多くの教師は、受験教育を薄めて流している。それでは、通用しないと思っている。生物の授業の中で、特進のクラスを初めてもったが、「異常な反応。すごい信頼感をもってくれる」。教員のアンケートをとっているが、満足度がすごく高い。受験教育ではない部分が入っているから、そのことに生徒たちがすごく反応している。そういう子どもたちの反応がありうるとあらためて感じている。
 高校の3年間で、すべて学びが終わるという発想ではなくて、そのあとも学びは続く。そういう学びで、いい社会つくっていこうという、子どもと一緒に社会を変えていく取り組みをしていきたい。いま、養護学校と交流している。ダンス部の生徒たちと。茶髪にして反発しているような子どもたちも、取り組みのかなで自分たちの足りないところに気付いている。
9(私立高校):特別進学コースがあるが、中学時代、授業にまともに出ていなかったとか、先生に意図的に反抗したとか、といった声がある。
 教師と研究会を組織したが、続かなかった。教員研修で、報告し全員で議論し、学びあう機会をつくった。授業のシラバスを全教師に書いてもらった。不十分なことがわかった。シラバスは、学年主任を入れないと、保護者の要求、生徒の反応が掴めないので、学年主任を中心に取り組んだ。生徒のやる気を引き出すシラバスづくり。社会とのつながりをもたせた授業内容をつくること。これで、100分の20点ぶん見る。自信が持てない生徒が、これをすれば、必ず評価につながる、「この内容から基本問題を出す」といった明確にして授業する。
 学校づくりと、生徒の学校への信頼感をどう合体させるか、それを授業の場面でどうつくっていくか、ここで、何とか軌道に乗りつつある。
 学ぶ自信がないという子に対して、もっとていねいに、生徒に明確に示してあげる。指導に際して具体的に、明確な目標をもつことが大事。そういう授業をつくる学校づくりの取り組みが必要。生徒が困っていること、悩んでいることの記録をとって、研修会の場で発表して取り組める若い教師がいるところまで到達した。
 虐待を受けている生徒が多い(暴力・放任)。こういう問題にどう取り組んでいくかが次の課題。
 
 今回の討論の全体的特徴は、子どもたちの生活実態、そこに含まれている指導上の課題についての議論が、学びの問題を絡めて進んだところにある。最後に研究会代表の加藤氏から、次のような発言・提起があった。
 久しぶりにこの研究会に参加して、大変刺激を受けた。職場づくりの紹介からは、基本的課題と発展的課題を考えると、教師の教材分析によって、各教科の「これだけは」という内容を整理する必要を感じた。教師それぞれが、自分の担当教科について、どこまで分析できるか。それも、手段的に取り組む必要がある。
 中国・香港など比較教育の学会に参加して
 日本・中国・香港、そこに共通するのは、「教育改革」。時代が変わろうとしているときに、教育も根本的改革を求められている。ヨーロッパは、現状に行き詰まったら、ギリシアに根拠を求める。日本はどうか? せいぜい明治にしか帰れない。日本の近代化とは何だったのか、それももう一度問い直す必要がある。江戸、それ以前の蓄積が、断ち切れている。そのために、戻るべき根拠がない。かといって、紀記の世界まで戻ることには問題を感じる。例えば、梅原猛の発言がある。そこまでいくと、妙なことを言い出すことになる。本当に私たちの思想の根拠をどこに求めるのか。日本の近代とは、何だったのかを問い直す必要がある。世界的な近代の問い直しとも結んで。
 自分の関心に結びつけると、タリバンによる破壊が話題になったが、明治の廃仏毀釈は、それどころではなかった。明治政府の宗教政策と同化政策(アイヌなど)が問題。それが、教育の問題にどうつながっているか。江戸以前の教育思想も掘り起こしていくと、今我々が直面している問題を乗り越えていく可能性が見えてくるのではないかと思う。
 提案(これは、後日、10月8日づけで生活指導研究会に届けられた加藤氏の提言である)
 
1.教育基本法「改正」が次期国会では具体的な政治課題になると思われるが、この「改 正」動向は、「心のノート」と深く連動して、子どもの国家管理をもたらすものと私考し ます。人権の課題として、これからの生活指導の重要な検討課題かと思います。
2 教育をめぐる四者(親・子ども・教師・国家)の関係の歴史的な検討。
 ・近代以前 ・近代学校の進歩性と差別性 ・現代社会が求める教育
 以上三点の検討を通じて、子ども認識の変遷をたどり、今求められる生活指導とは何か を探求する。(具体的には、京都府下のこれまでの教育・生活指導の実際を再検討する作 業が必要と考える。何を継承し、何を克服すべきか)
3 日本の近代化を支えた教育における宗教政策と同化政策
 近代化のと人権の問題として、今私が考えている問題ですが、生活指導の課題としても、位置づけられないかと思っています。 
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